開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

読書について

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本を読んで過ごすことが退職後の基本的な生活になっているが、それだけでは何となく物足りなさを感じてしまう。しょっちゅう旅行に行けるわけではないし、この歳で一人旅をするのもいざとなると気が引けてしまう。読むというだけでは自分ひとりで終わってしまうので、読んだという事実が限りなく薄くなってしまうのだ。 だから何なの?そんなの別に珍しくとも何ともないし、好きにやっていればと突き放されても仕方がない。本といってもぼくは小説のことを言っているのだが、この小説が非日常に最も簡単に行ける方法であり、最も安上がりな娯楽であり、何となく自分をみがく鍛錬みたいなところもあって回を重ねれば上達する趣味の要素もある。 映画や絵画やコンサートなど他の芸術、趣味との違いを考えてみると、小説は言葉を使っているために作品との距離が格段に近いような気がする。

普通に生活しているだけでも言葉で考え、感じ行動に移すことを繰り返している。それが本を読むという自分の行為によって、作者の作った言葉の流れが非日常の時と場所を作り、登場人物と共に動くことで、感じたり考えたり経験したりするわけだ。 そこに錯覚がある。映画は眺めている。絵画も眺めている。コンサートでは音楽を聴いている。小説では言葉を眺めていても何も起こらない。読むことで言葉から仮の現実空間を自分から想像しなくてはならない。この読むという作業はスポーツと同じでスキルであって、初心者レベルから初級、中級、上級とレベルアップする審級可能な能力なのだと考えたらどうだろう?

能力だから国語教育という学科目があるのだが、ぼくはスポーツの方が、トレーニングという必須部分と試合(ゲーム)という本番部分がアナロジーできて、より読書のダイナミズムを構造化できて、例えとしてふさわしい気がする。ぼくの回りで読書する人が少なくて、スポーツでは仲間ができているのに読書ではなかなか仲間ができなくて困っている。 それは読むという行為が意外と面倒を感じさせてしまっているのではないかと思う。ちょっと長文のメールでさえ、相手に負担をかけるのでよくない行為とみなされている。

 

小説の場合、普通の人の普通の会話やコミュニケーションではなく、感動を与え幾分なりとも読者の心を豊かにさせる効果が、その結末において生じなければならない。 小説も商品の形態をそなえ本屋で売られているのだから、値段に見合うかそれ以上の価値を提供しなければ詐欺になってしまう。 要は本を読む前に本が与える価値が分かっていれば、多少負担を感じる読むという行為も実行に移されるわけだ。小説を読まないという人は小説を読むことで得られる価値の内実や大きさに気づいていないということになる。