開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

世界観をつくる読書

ぼくにとっては読書はほとんど生きることと同じになっている。そういう人は世の中にたくさんいると思う。ただ自分の見知っているまわりにはあまりいないというだけだ。あなたは何故読書は生きることとほとんど同じと言えるのか、ちょっと大袈裟だと思うのではないだろうか?

何故の答えは、それによって「世界」ができるからというものだ。

こう答えると余計に大袈裟になってしまってピンとこないと言われるかもしれない。人間は世界の中で生きている。人間ばかりではなく、あらゆる生物は自身と世界を持っている。ゾウリムシはゾウリムシの世界があり、蝉は蝉の世界を持っていて、タンポポタンポポの世界があり、クジラもイソギンチャクも自身の世界に生きている。ただ人間には意識があり、自身の内面にも世界を作ることが可能だ。もし今生きている日常の世界が、いやでいやで仕様がないとする。読書は、その日常の世界とは別の非日常の世界をあなたにもたらすことになる。これは小説を読んだ場合だ。

では学術書、例えば歴史や哲学書や宗教や心理学の本を読んだ場合はどんな世界が作られるのだろうか?それは人類の知的遺産で言わば考古学的世界だ。無尽蔵ともいえる過去の歴史文献の中から、ある問いに対する答えが見出される。それは歴史をめぐる知的冒険となるだろう。

その場合の冒険とはちょうどタイムマシーンで過去のある事件に遭遇することになり、その「歴史的人間」の役割を自分が引き受けることになることを想定してみればいいだろう。そのようにして想像力を借りて学術書を読むことになれば、どんなに多くのことを学べるだろう。

それは上級者の読書法だ。そのようにして例えば「ロシア革命史」や「全体主義の起原」や「危機の二十年」や「弁証法的理性批判」をぼくは読んでみたいと思っている。どんな場合も一人だけ頼りになる最適のガイドがいる。それはその本の著者である。

 

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