自分の定年後の生活をイメージする時にまず出てくるのが「読書」である。何故「読書」がでてきたのかというのは、定年にならないと本が思いっきり読めないという思いがあるからだ。いわゆる読書三昧が許されるのは会社を離れてでないと無理だという実感があった。逆にいうと読書三昧という環境とか、その精神的自由感を味わいたいために定年を待ち望んできたと言ってもいいくらいだ。自分の人生の中でこの「読書三昧」と「精神的自由感」を一時期満喫していたことがある。ぼくの高校時代である。
ぼくは受験勉強を嫌って本ばかり読んでいた。ぼくにとってその時が乱読の時期で、よく作家が年少の頃の乱読体験を披瀝しているが、ぼくは作家程の読書量はなく、選択した職業も書くこととは特別関係ないということからも推測できるように、ごく普通の乱読コースである。つまり、世界文学全集を片っ端から読んだのである。その全集というのは比較的長篇の小説が多く、ぼくの読書傾向として長篇好みがあるのはその時の読書経験による。
ゲーテの「若きウェルテルの悩み」「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代」から始まり、ヘルマンヘッセの「車輪の下」「郷愁」「ナル チスとゴルトムント」、スタンダールの「赤と黒」、トルストイの「アンナカレリーナ」「復活」、ドストエフスキーの「罪と罰」「未成年」「白痴」「悪霊」、ロマンロランの 「ジャンクリストフ」「魅せられたる魂」、ジャン・ジャック・ルソーの「孤独な散歩者の夢想」、カミユの「異邦人」「ペスト」、サマセットモームの「月と 六ペンス」、と順番はこのとおりか記憶が定かではないが、約一年半程の期間はこの乱読の小説とともにぼくの高校生活があったのである。
今、「小説とともに私の高校生活があった」と書いたが、これは単にレトリック(修辞)として書いたのではない。実際そのような生活であった気が今この歳になって振り返ってみるとするから、事実としてそうであったと書いたのである。つまり、必要以上に現実を深刻に考えたり、恋愛至上主義になって女性崇拝的な片思いの結果、失愛に苦しんだり、逆に優柔不断でつきあってくれた女の子を苦しめてしまったり、天真爛漫の時期があるかとおもうと自責の念で極度に落ち込んだりと、決して平和な心境にはなれずに過ごした記憶が今でも断片的に思いおこされる。
ぼくは幾分ラスコールニコフに似ていたし、ロッテのような女性に憧れ、ムルソー気取りで夏休みを過ごし、ジュリア ン・ソレルのような自信家になってラブレターを書いて赤恥をかき、ジャン・クリストフとともに長く暗い冬を情熱的に過ごし、カチューシャのようなちょっと 斜視の女性に恋して一度だけデートしてもらったり、トルストイにかぶれて白樺派のようにヒューマニズムが最大の価値だと回覧日誌に書き込んで担任の白井先生にからかわれたり、「悪霊」に出てくる政治活動家の議論のように学生運動を自分の内面に引き込んでしまって軽いノイローゼになり一週間不登校を経験したり、何かにずっと取り付かれていたかのように高校生時代を過ごしたのだった。
今から思うと何故これ程までに読んだ小説に影響されて実生活が振り回せれてしまったのか、不思議に思える。実生活が受験勉強という現実離れした学生身分だったからというのはあるだろうが、それでもそのころのぼくは無知ゆえに大胆な行動がよくとれたと感心するくらいである。安定した生活というものにまだ出会っていなかったし、多分心は荒れていたと思う。