開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

読書が人格の陶冶になると信じられた時代

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ぼくの住んでいる野々市市(ののいちし)公民館の読書会に参加してみる。今回の課題書は星新一の「おーいでてこい」と「月の光」である。星新一の小説は初めて読む。社会風刺になっている小話とでもいうべき作品だが、こんな小説が作られていたことに新鮮な(驚きというべきか、発見というべきか)感じがしたが、ぼくには割り切れないものが残った。これは果たして小説と呼べるのか?語り手はいるのだが主人公というものがいないので、小説中に感情移入して入り込むことができない。というか、読者を安易に近づけないように謎をかけるような話の運び方をしている。

ぼくは本と一緒に暮らしているようなもので読まない日がないほど数冊手元に置いて読んでいる。ある作家が小説は19世紀で一度終わっていると言っていたが、小説中に生きている現実を描いてないと入り込めないのでぼくにとっては役に立たないのだ。小説中のリアルがぼくの現実と噛み合うと夢中になれる。最近では村上龍の「55歳からのハローライフ」が身につまされて読みがいがあった。

ぼくの高校時代は読書が「人格の陶冶になる」と信じられた良き時代の雰囲気が残っていた。だから世界文学全集から抜き出しては次々に主人公の真似をして「かぶれ」ていたものだ。それが過ぎて登校拒否を暫くするようになったりしたが、、、、それはさておき星新一という作家は果たして小説家と言えるのだろうかという疑問が残る。テーマや着眼点は面白いのだが、それを登場人物に展開させてストーリーにしているのだろうか?それはストーリーではなく、コントなのではないだろうか?

(注:写真は野々市市公民館の読書会のものではありません)