開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

自分とは何か

 「利口そうなおしゃべりなんて、ぜんぜん価値がない。

ぜんぜんないね。自分というものから離れてゆくばかりだ。

分を離れてしまうというのは、罪悪だよ。

ぼくたちは、自分の中へかめのこみたいに、

すっかりもぐり込むことができなけりゃだめだ。」

______『デミアン』から。 

 

読書三昧という状態に憧れがある。その状態というのはどうすれば訪れるのか?まず、その状態はどういうものか?本に囲まれていて次から次へと本の世界に浸り続けていて、限りなく隙間がない。そうだ、いちいち感想など書き出そうとしなくても、面白くて夢中になる状態を保てばいいのだ。ではぼくは何が面白いのか、それを明らかにした方が早道かもしれない。ぼくは自分に関することに興味がある。ナルシスなのかもしれないが、ナルシスと少し距離があるように思う。自分に興味があるのは、分かる範囲内にあって、迷惑がかからず、何をしようと自由にできるからだ。他人はまず何を考えているか、たとえどんな質問をしても必ず答えてくれるとしてもなお、無限に分からないことが出てくるだろう。でも、自分に質問をしても分からないことが出てくるかもしれない。例えば自分とは何か。この質問は自分について分からないのではなく、何かという問いかけ自体が分からないのではないだろうか?それは存在の実質、定義、守備範囲のようなものだろうか?

これは明らかに哲学の問題になってきた。そうすると自分は自分と思っていたことが自分から離れていくことになる。しかしこのように考えている自分は考えている間は自分である。たとえ哲学的な問題について考えようと、哲学者になれるわけじゃなく自分のままなのだから、どんなことを哲学的に考えようと無意識な部分につきまとわれようと自分からは逃れようがない。だったらどんなことでも考えていいのではないか?

 

例えば自分の国について考えてみよう。自分は生まれてこのかた日本の国民ということになっている。国とは何かはよくわからないところがある。知識が足りないのだ。国民というのがよくわからない。住民なら分かる。住むということが具体的にどういうことか分かるからだ。しかし国民は住んでいるが住むこと以上のことをしている。例えば18歳以上は選挙権があるから投票に行く。国が戦争状態になったら戦争に行かなくてはならなくなる。自分では戦争はしたくないと思っていても、国民になったら戦争しなくてはならないのだろうか?戦争したくない場合、国民にならなければいいのだろうか?現実には考えにくいが、もし自分が日本国籍を放棄すれば戦争もしなくていいということになるのだろうか?ここまで考えている自分は自分であるから、ある意味自分の考えについて考えているだけだから問題はないはずだ。もっと考えを進めてみよう。自分が日本国籍を離脱するとどうなるのか、これも知識が不足している。でもその際のリスクについては勉強して知識を得ておく必要がある気がする。自分が生きている間に戦争が起こることはないかもしれないが、ないと言い切れないので具体的にシュミレーションしておくことは意味があると思う。