かつて有名であったが今どき絶対読まれないだろうという小説をぼくは好んで読むことにしている。野間宏著「青年の環」がそうだったし、ロマンロランの「ジャンクリストフ」がそうだったし、今回のサルトル著「自由への道」もそうだろう。とにかく今どきの人はこんなに長い小説は最初から読む気力を失うはずだ。ぼくは時代にあえて逆らって現実から遠く離れたところから、いわば身を隠しながら生きるのが好きなのだ。幾分1Q84の天吾に似ているかもしれない。
さて今日サルトルの「自由への道」全4部のうちの1部を読み終わる。これはサルトルを甘く見ていたなと反省させるだけの反道徳的な悪をも引き入れている青春を描いていた。最後に青春が終わって「分別ざかり」が訪れることになるが、追体験しようとするとくたくたに疲れる。しかし読み終わると、「ぼくの」青春が体に戻ってくるような爽快感に浸ることができた。サルトルの文体は肉惑的で繊細で力強かった。ただし平気でウソがつける主人公と自分では追体験にも限界がある。勇気を試すために自分の掌にナイフを刺すこともできない。登場人物のパリに生活する人々の中に入って、あの時代の空気を吸う楽しさは十分味わえた。
年金生活者の生活を余生ととるか、本来の自分への回帰ととるかでせっかくの一回きりのクオリティライフが全く違ったものになる。働くことを免除された環境をぼくは貴族的な、少なくとも精神の貴族の環境として捉えたいと思っている。今読んでいるサルトルの「自由への道」で、主人公マチウの教え子でもある愛人イヴィッチが、マチウから渡された100フラン紙幣をマチウがいなくなってから小さくなるまで破るシーンがあるが、それは彼女がロシア貴族の血を引いているからだった。イヴィッチのようにお金に縛られないのが、年金生活者のいいところなのだからそれを生かさない手はないと思わないだろうか?
ただ精神の貴族はなかなかなれるものではない。まず自分の命の値打ちを知っていなければならない。現代ではなかなかその機会はないが、自分の死ぬべき時をわきまえている必要がある。自分らしい死のゴールをイメージできているということだ。このイヴィッチはナチスドイツとの戦闘下のパリで死ぬことを覚悟して、家出したのだった。ぼくはもはや老人の域に近づこうとする身であり、精神の貴族として今に生きるのはかなりハードルが高い。しかし無謀にもぼくはそれに挑戦したいと思う。