高校の同級生と始めた読書会でお互いの読書の仕方に「齟齬」が現れてきたのは3回目の時だった。野々市の図書館近くのスローライフのトレードショップal(アル)のバルコニーで行われた。9月半ばの秋風を肌に感じながら、「今日のオススメコーヒー」を注文して始められた。
まずは生真面目にこの読書会の意味みたいなことを確認することにした。前回ぼくは友人の読みが小説ではなく、つまり芸術ではなく普通の評論っぽい本の読み方なのに違和感と少しイライラを感じていた。「君は小説を読んで理解しようとしている。」そうではなくて小説の世界の中に入って追体験しなければ、作者が創作した文を読んだことにならないと、できるだけ控えめに話した。すると彼は自分の理解が誤解になっていないかをまず確かめたいのだと言った。自分が読み進めている小説の文で、自分が感じたことや意味や背景がそれで合っているのか不安になるのだろうか?ぼくはそれは学校でやる国語の授業のようだと言った。(こう言ってしまってはもはや控えめではなかった)彼は元高校の社会科の先生だったので余計にそう思ったのだった。
授業ではなく自由な読書会にしたいのだ。グレートギャツビーの作者のフィッツジェラルドが今ではアメリカの公共教育の教科書に載っているとはいえ、描かれた小説の現実は途方もない放縦であり、ひと夏の悲劇の恋物語であり殺人事件なのである。ぼくの言いたいことは学校という安全圏にいて、物語の一員として参加しないのはあまり楽しくない読み方なのではないかということだった。彼はお互いの読み方が違っていることを認めて、少しはぼくの読み方を理解してくれたようだった。