開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

小説を読む人

ぼくには非現実を求める病みがたい欲求があると以前のブログに書いたが、それは冒険や恋愛に似ているかもしれない。その場合現実化するにはいろいろと準備したり、ふさわしい相手が必要になる。例えばひとり旅に出るとか、異性と出会う場所を探して行動しなければならない。その行動にはリスクがともなう。かなり面倒臭いことも覚悟しなければならないだろう。一番のハードルはどんなことでも動くことはお金がともなうということだ。でも手っ取り早く冒険や恋愛を楽しめる「装置」がある。それが小説を読むことなのであるが、読みが深いほど自分自身の過去の経験の海にはまり込んでもがき、悔恨や懺悔や認識や勇気をかいくぐってくるのである。深い海から這い上がってきた時の爽快感は何物にも代えがたく、どんな現実的な快楽にも劣らないというよりはそれと別種の感動をもたらす。

これを書く前に本当は小林秀雄(「読書について」は読んでみたいと思った)や平野啓一郎(「スロー・リーディングの実践」は半分ほど読んだ)の「読書論」を読んで、読書という行為の全体をつかんで自分の論を書くべきと考えていたが、そうすると読書そのものの切実感やおもしろ味から遠ざかる気がして、まず自分の読書から得ている感じを書き留めておきたかった。

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追伸。せっかくなので平野啓一郎の「スロー・リーディングの実践」からコミュニケーションとしての読書を紹介します。

  • 読書の面白さの一つは、読んだ本について、他の人とコミュニケーションがとれるということだ。
  • ある意味で、読書は、読み終わった時にこそ本当に始まる。ページを捲りながら、自分なりに考え、感じたことを、これからの生活にどう生かしていくか。読書という体験は、そこで初めて意味を持ってくるのである。