開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

疎外感の時代 2

f:id:hotepoque:20180212100200j:plain

三島由紀夫連合赤軍のことを調べようと思ったわけではない。何が主張されていたかとか、それまでの経緯のようなことには関心がなかった。ただ通常の強盗事件とか殺人事件とは違う動機があり、それは彼らが自分の命をかけても成し遂げたいとする思想につながっていた。その思想に興味があったかというとそれも違う。思想そのものではなく、日常性を打ち破るに至るエネルギーの根本となるものというか、「特異点」に興味があった。その時それが起こってしまう時代性は何なのかという、抽象性にあったと思う。ぼくが青春時代にあった時の時代の切迫感はどうして存在していたのか、というふうに表現できるかもしれない。

行き詰まっていた。

ちょうどぼくも将来の職業選択がどうしても決められない迷いの時期に当たって、行き詰まっていた。何か訳がわからないけど漠然と全てが悲しかったのを覚えている。ちょうど宇多田ヒカルのデビューアルバムの全てが悲しかったように。(宇多田ヒカルとは時代が異なるが、彼女がどうしてあの頃悲しかったのだろうとコメントしていたのを聞いて、自分も同じと感じたのだった。ついでに言うとぼくの世代ではユーミンの「飛行機雲」の悲しみに近いかもしれない。)

どうしてあの頃悲しかったのだろう?

ぼくは女の子に振られて悲しかったのではない。三島由紀夫連合赤軍のメンバーの「絶望」を感じて悲しかったのではもちろんない。でも確かに時代の空気が悲しかったのであり、その感じ方はぼく一人ではなかったと確実に言えると思う。悲しみの質でいうとサリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」に流れる悲しみに近い感じがする。まず孤独と周囲との疎外感が悲しみを作っている。そうだ。疎外という言葉があの時代流行していた。疎外という概念があの時代多くの思想に生きようとしていた人々(われわれ)の心を支配していたのだ。