開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

現在、過去、未来

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労働、生産による社会生活から身を引いて、自己学習による年金生活に移って3年になる。確実なことはすべて自分の過去にあって、それが学習の(探求といってもいい)素材を提供することになるから、自ずと過去に向かうことになる。例えばむかし買ってそのままになっている本を取り出して読んでいるが、そこで得た「体験」には現在と未来が含まれていないだろうか?

しかし本(多くは小説だが)に書かれてあることは作者の過去の出来事であるから、過去のことばかりでどこにも現在や未来はないのではないか。では「体験」によって新しくぼく自身が知り得たこと、それによって将来への指針となるような認識を得た場合、やはりどこまでも過去なのだろうか?

おそらく読むという行為の中に、現在と未来があるのだろう。書かれてあることはすべて過去なのだが、読むことによってそれがぼくの現在に再現され、読了後に変化をもたらすことが未来を引き込むことになるのだ。

ということは、読むことは生産ではないだろうか?

 過去からの連続での未来ではなく、純然たる未来というものがあるとしたら、どういうものだろう。全く予想もつかない突然訪れる未来は果たしてあるのか?例えば歴史的な例になるが、ロシア革命は1917年においては純然とした、突然訪れた未来だったのだろうか?つまりその当時多くの人たちにとっては起こりえない事件だったのだろうか。そしてソ連邦の崩壊やベルリンの壁の崩壊は、(直前まで)起こりえない未来だったのだろうか?

なぜそういうことを考えるかというと、現在において未来には何が起こり得るかということを知りたいと思ったからだ。特にぼくの現在は過去に遡行することが多くなっているから、ふと未来のことを思い出したのだ。(つづく)