開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

将来に備えた準備やひとつの向上心

書くことの目的として「自分を存在させる」ことと書いたが、もっと前には「将来に備えた準備やひとつの向上心を育てること」と書いたことがある。その時おそらく将来とは自分の老後のことを指していたと思う。確実に訪れる老いについて心の準備をしておきたいと思い始めたのだろうと思う。

今年65歳を迎えることの現実には何があるのだろうか?

2018年はぼくやぼくの妻、ぼくの母にそれぞれ訪れる老いをどのように進めるだろうか。孤独と寂しさは、独り住いの母にとって一層厳しいものになりそうな気がする。環境が厳しいというわけではなく、母の心の状態が負の方に向かいがちだということだ。ぼくは今より対面する時間を増やす必要がありそうだ。

昨日ちょっとした会話から母の心の底の方に、社会的弱者や身分の低い仕事についている人に対する見くびりがあることを攻めることになってしまった。例えば掃除婦とか宅配で弁当を届けてくれる人を見下す態度が目についたのだった。母は無意識の態度だから気づかないのだが自分の孤独を進めることになる心の状態だから、ぼくは以前からよくないと思っていたのが昨日おもてに出ることになった。ぼくの指摘に昨日家に来ていた叔母や妻が加勢する格好になった。

思いがけず3人から責められることになったことをおそらくネガティブな母は悪くとることだろう。母を攻めることになってしまった時、後味の悪さを経験した原因について考えていた。その原因をようやく思いつくまで丸一日を要した。こうして日記の続きを翌日となった今書いている。

その原因とは、母が傾倒している宗教に立ち入って批判したことだ。母が大切にしている領域に踏み込んで、母の宗教心からしたら「それ」は教えに反しているではないかと言ってしまったことがぼくの心に後悔の念を残した。仏教では自分と他人に区別を置かないのが基本であると昔、唯識でぼくは学んでいた。そして仏教ではむやみに人を傷つけてはいけないのだ。

仏教では、死に対する準備や修行によって心の向上を実践することがプログラムに含まれている。ただそれは黙ってすればいいことで、言葉にすることは求められない。言葉にすることが求められるのは西洋哲学においてだ。ぼくはそれをサルトル哲学によって「書いて」みたいと思っている。