人は老年になって自分が積み重ねてきた人生をある完成に向けて、ちょうど画家が一人の肖像画を描くように、残りの人生を生きて行くというイメージがある。ぼくが高校生だった頃、白樺派という文学集団を現国の先生から教えられ、しばらくはトルストイや武者小路実篤の小説の世界に住んでいたことがある。とても牧歌的で夢心地で人の一生は意味にあふれていた。半年ばかり楽天的に過ごしたと思う。思い出すとひたむきながらどこか甘味な、包み込むような雰囲気が現れてきてあの頃に戻りたい衝動にかられる。しかし、今更あの世界に還ることができるのだろうか?それは人生の明るい面だけを見て自分をごまかすことではないのか、という声が聞こえる。
実際高校の時はお目出度い若年寄りみたいな自分が嫌になって、真逆の不条理な世界観に落ちることになった。この時ぼくは自覚的に「落ち」てやろうと思った記憶がある。キルケゴールの「死に至る病」を読み、小説はカミユを読んだ。それにしてもどうしてあの頃の自分はそんなに潔癖になろうとしたのか、合理的な理由は考えられない。あえて推測すると何にも世界が見えてない自分がバカみたいに思え、間違った自分を傷つけなければ済まない感情が、ちょうど手首を切ることで自分を保つ少年少女のように激しかったのだろうか?
第二の人生を始めようとする(本当の年寄りに近くなっている)今、正直に言うと少しばかり身を危険にさらしてみたい気がしている。もう一度今の時点であの激しい自己嫌悪の状態に「落ちて」みたいのだ。僅か一瞬の青春のぼくの内面には一体何が起こっていたのか、今だったら言葉にできるかもしれない。それはぼくのこれまで身についた思想らしきものを一度かなぐり捨てて、果して裸の自分は何を感じ、世界をどのように掴もうとしていたのかを確かめることだ。今、白樺派の人生にぼくは何を見るだろうか。