夢を見ている時、ふと自分はどこにいるのだろうと反省してみたことはないだろうか?夢の中に一人の男がいておそらく自分なのだろうと思っているが、その男を見ている意識は眠っているはずの自分ではないかと思うと、その男は意識している自分ではなく想像上の自分であるはずだと気づく。そうか、こいつが俺なのか、ではこいつをうまく操縦して色々な時間や場所に登場させてみたら小説が書けるのじゃないかと考えてみた。しかしその前にもっとそいつを観察して、しっかり輪郭のあるものにしなくてはならないと考えを進めてみる。
確かに自分はとにかく二人いることが分かった。サルトルのいう即自と対自である。主人公が自分の場合、「僕」または「私」で小説を書くが、「僕」または「私」は即自であり、作者である自分は対自として即自を自由に登場させて描く。ただし永遠に即自に到達できず小説である限りはリアルな生命体として描かなければならない。即自の独自性は対自といえども無視するわけにはいかない。
その男(即自としての自分)が思春期を迎えたころ、突然自分というものを意識しだして考えることを覚え始めた。繁華街の一番大きな書店に行って、並んでいる背表紙のタイトルをじっと眺め何か感じた本をペラペラめくってみるのが楽しみになった。どういうわけか哲学のような難しそうなタイトルだと、何かいっぱい詰まっている気がして手にとってしまうのだった。抽象的な言葉は少年にとって自分を解放してどこかへ連れて行ってくれそうだった。
さて男は成長して会社員として勤めて中堅クラスになった頃、社長からの一言が深く刺さり人格を否定されたように感じて鬱になってしまう。その時少年の頃の自分を思い出し、会社の帰りに本屋に寄って鬱からの脱出のために貪るように本を漁るようになった。もう一度思春期の自分から自分作りをやり直さなければならなかった。