開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

絵画の楽しみ方

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ロートレックの画集があるはずだと、実家のぼくの結婚してから空き部屋になっている部屋の本棚を探してみた。勘違いで、タイムライフブックスの「巨匠の世界シリーズ」にはロートレックがなかった。あえなく、18歳の頃の青春の断片をありありと思い出す、という思いつきは頓挫した。あのシリーズには時代背景がたっぷり書いてあるので、ベルエポックの雰囲気も感じ取れると期待していたのに、、、。おそらくグラフィック的な絵も描くロートレックは巨匠の範疇に入らないのだろう。ゴッホセザンヌマチスやモネなどから見ると、シリーズから漏れても仕方がない気がする。ロートレックの描く世界が俗っぽく大衆的だということもあるかもしれない。

ところで、絵画という芸術の小説などの文芸との違いということを考えてみたい。これまで小説に関することばかり書いてきて、ここらで絵画についても書いてみたいと思った。

絵は一瞬の静止した、視覚に訴えるモノの表現である。モノには人物や動物、風景や静物などがある。抽象的な形だけの場合もある。小説はある意味時間表現であり、絵画は空間表現である。自画像の場合は作者が絵に現れるが、自分以外が描かれる時、作者は絵の背後に隠れている。ピカソゲルニカを描く時、それぞれのモチーフの表情やポーズにピカソの怒りが込められている。モネの睡蓮は、池に浮かぶ睡蓮と水面に照り返される光が渾然としている風景の中に、モネの創造する筆さばきが込められている。おそらく自分を、見ている風景と「一体化」しようとする欲望がある。だから美術館全体が睡蓮の絵で埋め尽くされるほど大型になる。(オランジュリー美術館の睡蓮の間のこと)ゴヤの晩年の「我が子を食らうサトゥルヌス」は宮廷画家だった自分自身の変身した姿だったのかもしれない。

とにかくぼくの言いたいのは、作者は絵の背後に何らかの形で「居る」(関係している)ということだ。絵を描く長い長い時間には作者のエロス的な執念があるはずだとぼくは考えている。小説を読むのは追体験するためであり、絵画の場合も作者の執念を追体験するのがぼく流の楽しみ方だ。