昨日、西部邁の出ているYoutubeを見ていてふとビジョンが浮かんだ。気だけは若いと思っている自分が、年相応にある治り方をするような気がしたのだ。年齢を重ねて人となりが、落ち着いた自信が身につくように完成していくイメージをこれまでどうしても持てなかったが、そのビジョンによってうまくできそうな気がした。そのビジョンとは自分の心の中にある「神」を存在させるということだ。決してキリスト教の神やましてや神道の神ではなく、あえて言うならマイスウィートロードなのである。多分白樺派が懐かしく感じられたことの延長線上にあり、トルストイが信じた民衆とともにある神に繋がっていそうな気がする。
これまで別にサルトルに学んだわけではなく無神論を当たり前のように受け入れていて、自分の心の中には自分しかいなかった。でも自分の心の中にマイスウィートロードがいると感じたら、ぼくは絶対的な孤独から解放されるかもしれないし、永遠の相談相手を持つことになると思われた。そうだ、絶対者として神がぼくの心の中に君臨するのではなく、「感じる」神なのだ。トルストイを読んでいた頃はその感じる神と一緒に過ごしていて、ぼくはアリョーシャのようだったことを思い出した。(ドストエフスキーとトルストイをごっちゃにしていると言わないでほしい)宗教というものを信仰と同じと考えるのが常識と思うが、神を信じるというよりも神を感じるという方法の方がぴったりする。とにかくぼくの心の中に、ぼくとぼくの他者である神がいることになる。これは無限の安心感を与える。昨日からゲーテの「ファウスト」を読み始めた。ゲーテの心の中の神との対話が戯曲形式で展開されている。