青年期、マルクス主義学生活動家と接触していた一年とその後の就職までの二、三年間をどう評価するかが、今になって自分に迫ってくる。自分は活動家であったのかは明確に否定できる。そばにいて共感はしていたが自ら政治的主張をする能力がなかった。しかし、父親から彼らに近づくことを禁じられた時(ぼくは自宅通学だった)、はっきりと拒否を示した。親ではあっても、一人の人間として自由を奪うことはできないと決めていたので、「勘当」に対してはまともに受け止めなかった。まともに受け止める経済的な力もなかった。その頃のぼくがアルバイトをして稼ぎ家を出て自活するというイメージが全く湧かなかったのは、口では自由と言っていながらまだ子供であったと認めざるを得ない。21歳にはなっていたが世間知らずで何事にも不器用だった、、、いや実際のところ、それは単なる脅しであったような気がする。薄々ぼくは感づいていたのだと思う。
自分では活動家ではなかったものの彼らと行動を共にすることはあったので、管轄する行政には同じように見えていたかもしれないし、そのように見られることを自認もしていた。「責任は引き受けなければならない」としばらくして腹をくくった。あるいは、「向う」がそう思うのなら、そうなってやる、と心の中で叫んでいたような気もする。しかし、冷静に今になって考えてみると、活動家とシンパは明確に分けて見ると考えるのが順当だろう。それでもシンパは何かの条件や思想上の進展によって活動家に変わりうる、と見ていた可能性もある。
ずっと後になって親類の葬儀に出た時に、従兄弟(従姉妹)たちと自然に昔話に移っていったことがあった。そこで「まあちゃんは勉強しすぎて学生運動の方に行った」と言われた。勉強しすぎて頭がおかしくなったと周りでは噂されていたのかと、ずいぶん経って知ったというお話。(注:掲載した写真と本文は全く関係がありません。)