ぼくは哲学者でも哲学研究者でもないが、哲学というものをこの二者の独占物と考えることには異議を称えるものである。なぜ自分が哲学に引き寄せられるかを自分の側ではなく、対象として哲学の側に求めてみようと思う。かと言って、哲学そのものを語る資格はない。あくまでぼくが哲学として受け取っている、概念や観念や論理や理念や存在や真善美などが、宗教と違うかたちで文化的資産として歴史的にあることの意味を考えてみたいと思う。文学がぼくに生きる力を与えてくれるとしたら、哲学は考える力を与えてくれる。
社会が何で動いていて、人間の悲惨の原因とその解決法をマルクスは資本論という哲学体系にまとめた。産業資本や金融資本で動くシステムを経済学の分析研究を通して、ヘーゲル観念哲学の転倒適用を持って資本主義を解明して見せた。もちろん、資本論は人類に問いを投げかけた哲学の一つで、全世界の研究者が有用なものに仕上げていくことだろう。(ソ連の崩壊は資本論の無用性を意味しなかった)なぜどのように資本主義が生まれ、歴史を動かしていくのか、人間はその中で豊かになると共に貧しくもなるのはどういうメカニズムが働くからなのか?
このようなおよそ壮大なる問題も考える力がつけば、本を読むことによって自分なりの答えや方針のようなものを持てるのである。それは自分の中では「のようなもの」に過ぎないが、書くことで第三者が読んで批判することによって、妥当性を増すことができる。それが文化資産の活用になると思う。