開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

哲学の人格的効用

f:id:hotepoque:20180313100400j:plain

世の中には働かなくても不労所得のある人は生きていける。ぼくは昔そういう人が会員になっているスポーツクラブに一時期通っていたことがある。入会金が30万円した。ぼくの年収からしたら破格の料金なのだが、そのころテニスが面白くのめり込んでいてこの趣味にはお金をかけてもいいと自分を納得させていたのだった。なぜこんなことを持ち出してきたかというと、働かない人の周囲に発散する雰囲気というものと哲学者の雰囲気を比べてみたかったのである。現代に哲学者がいるとして、ほとんどが学者で大学に属しているわけだが、ギリシャプラトンソクラテスは市民としてポリスに属し公共の広場で討論して自由な身分だった。暇であることが認められていて、暇であることが不労所得のある現代人と共通している。ところが風格というか醸し出すものは全く違い、スポーツクラブにたむろする暇な人は貧相に見える。働かないで好きなことをして時を過ごす人と、働かないで哲学する人と、人としての違いが現れてしまうのはなぜだろう?哲学にどのような人格的効用があるのだろうか?

比較する対象がそもそもおかしいのかもしれない。

美大の教養過程の時、美学や美術史の授業で教授が外から来て講義をすることがあった。講義内容は全く忘れてしまったが教授の風貌は覚えている。美学は金沢大の哲学教授でヒキガエルのような顔なのに(失礼な表現ながら)堂々とされていた。でも教授の奥さんは美人でとても羨ましく思った。どうして奥さんまで知っているのか今思い返してわからないのだが、どこかで奥さんを「従えて」歩いているのを見かけたからだろうと思う。美術史の教授は老齢だったが若々しくフィレンツェの街が似合いそうな、イケメンの哲人だった。哲学の効用をそういう外観から推し量るのは不見識には違いないが、当たらずとも遠からずとぼくには思えた。