ブログに自分のことを投稿するようになってから、正直にありのままの自分をさらけ出すことができなくなってしまった。井上光晴は100パーセントありのままに書くことはできず、15パーセントくらいは自分を擁護するウソを混入させているはずだと述べている。(それはリアリズム小説について言っていることなのだが)自分はまだ半分以上というかほとんど真実に触れてない気がする。まだ書き始めて日が浅い。真実の自分が現れる瞬間や場面というものがある。例えば、付き合っていた彼女と別れる時や、就職する会社を決めた時や、結婚を決めた時や、ぼくの場合は学生運動と決別する時などがある。
告白しよう。その全てにおいてぼくは生死を賭けるような葛藤のすえに決断したわけではなかった。言葉としては何とも心もとない響きに聞こえるだろうが、いずれも「何となく」そうするしかないような、結果的に決めてしまったという感じなのだ。それは東京裁判の時に多くの戦犯とされた人が「そうするしかなかった」と言った無責任さを思わせる。(そもそも例えがおかしいが)
付き合っていた彼女の一人からはあなたは「覚悟はできているの」とさらりと言われたことがある。それは急所をついた。ぼくは覚悟をすることなく付き合い続けて実を結ぶことがなく終わった。実を結ぶことが結婚であることすら未だにそう思えるか心もとないところがある。段々と確からしく思えてくるのは自分には深いところで足りないものがあり、それは愛ではないかと感じられる。その感じは強まって肯定せざるを得ないように思える。