開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

井上光晴著「地の群れ」を読んで

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戦前にはプロレタリア文学というのがあり、その代表的作家である小林多喜二の「蟹工船」は2008年に再脚光を浴びて、その年の流行語大賞にノミネートされていたらしい。ぼくにとって小林多喜二特高から受けた拷問の凄さのイメージが強く、小説はなかなか読む気になれなくて今日まで来ている。それにしても日本の国家権力の暴力はどうしてあれほどまでに残虐なのだろうか?隠れキリシタンに対する弾圧の凄まじさや、NHKの「龍馬伝」で見た拷問シーンのリアルさで、ぼくはそこに欧米と異質な残忍性を感じるのだが、、、

それはさておき、井上光晴はぼくにはプロレタリア文学の流れにある作家と思われ、これまでまともに読んでこなかった。長編の「心優しき反逆者たち」は途中で挫折したり、老人ホームが舞台の「パンの家」は親の介護が身近な問題となっていた頃に興味本位に読んだくらいだった。今回友人と読書会をするために読んでみて最初に感じたのは、やや実験的にも思える文体の新しさだった。多分サルトルの「自由への道」を読んで作家として学ぶところがあったのだろうと思った。物語の主展開とはほとんど無関係の端役の登場人物にもちゃんと固有名を与えたり、連想から時空を飛び越えて場面が変わり、それをあえて分離せずに混在させる手法などは、世界文学の文脈に入るように意図されていると思われた。

ところで、なぜこの本を課題本に選んだかについて書いておきたい。これまで読書会で取り上げたのはどちらかというとメジャーな名作と評価されている正統派文学ばかりだったから、飽きが来たこともある。(この作品は芥川賞候補に挙がりながら選考者の眼識の低さから選考されなかったという曰く付きのものだった)

僕の小説読みは追体験だから、どちらかというとこの作品世界には近づきたくなかった。デミアンハムレットやグレートギャツビーは何と言っても欧米人であり、主人公に感情移入してもどこかで自分ではなかった。「地の群れ」には被爆者やエタや朝鮮人部落民や炭鉱労働者や共産党員が登場する。そんな世界には本当は入りたくないのだが、いわゆる社会的底辺に住む人たちに対しても分け隔てなく接するのがぼくの信条でもあるので、そんなことは言っていられないのだった。

いろいろな住民が描かれるがそれらは主人公の宇南親雄の過去にすべて入っており、医師である主人公の診療所という場所を起点としてそこで接する人物との関係を回想することで小説が成り立っている。宇南親雄の出自と生いたち、両親との確執、妻との出会い、患者や健康診断書を作ってもらいに来た少女や肉を売りに来る老婆や仲買人など、多彩な人物はすべて「現在の」診療所という空間から過去に向かうことで、様々な想起が起点に繋ぎ止められているような構造が見て取れる。だからプロレタリア文学当時の小説空間とは違い、重層的多面的となっており、単なるリアリズムを超えて方法意識に基づく構成になっている、現代小説なのであった。