開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

加藤周一編「私の昭和史」を読む

 戦前、戦中、戦後を生きた普通の人たちの自分史の投稿を加藤周一が編纂したもの。これ一冊だけを読んでいるわけではないが、三日かけて読み終える。15人の私の父に当たる年代の男女の投稿でそれなりの文章力を備えた人で、客観的に自分と世界のつながりの中でどう生きてきたかを読ませるだけの経験を持った人たちばかりだった。何せ実録であるから戦争体験もそれぞれリアルで、現代に生きる自分では書けないような深みがある。台湾が日本統治の時、台湾神社の鳥居を味方の戦闘機が低空飛行で引っ掛けてしまい、炎上させるという情けない事件があったということを宇敷民夫さんが書いていた。

ちなみにmixiのレビューでこの本の感想を書かれた、やや「右寄り」の方が事実を事実と受け止め難いと述べていた。事実を事実と受け止めないとしたら、客観という思考ができない人だと思われた。それは哲学の問題で、事実を疑えば歴史修正主義が生まれるのも分かる気がした。 mixiのレビュー者のコメントが気になり、取り上げてみることにする。この人は、「投稿した人たちは 自分自身をさておき『日本人は』と、 あたかも自身が日本人でないかのような位置づけの文章が目立ちます。」と書いている。http://mixi.jp/view_item.pl?id=872856

おそらくこの自分史の投稿者に対して「あなたは自分が日本人なのに、同胞意識の欠如の自覚がないままに、日本人が馬鹿な戦争をしたと他人事のように言っている」とツッコミたくなったのだろうと思われる。当時の軍部が政権をとった政府に、冷静に距離をとった加藤周一のような国民をそもそも認められないのだろうとも思える。

だが政府が間違うことは歴史的に十分ありうることで、間違った方向にいかないようにするために憲法を国民が持っているということを、このmixiのレビュー者のような「右寄り」の方は知っているのだろうか?例えば、イギリス人がイギリス人はという時、誇りを持って言うだろう。フランス人も同じだ。マグナカルタや人権宣言を自分たちでやり遂げたから、そこに誇りがあるのだろうと思う。(現政権をとっている党員の一人は国民に主権があるのがそもそも間違いだと言っている。)

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