開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

泉野図書館に通っていた頃 の日記から

今日は午後から泉野図書館へ行っていつもの本の続きを読んだ。辻邦生の「言葉の箱」は今日で読み終わった。5回ぐらいで読了になったが、なかなか勉強になった。小説でも自分が何を書きたいかの核が大事で、それを見出す必要がある。小説はF+f である。Fはファクト、fはフィーリングでこれが漱石の定義だということだった。「日本精神史」は仏教の伝来の歴史で、最澄空海まで進んだ。仏教はまず仏像という形から入って、写経の時代を経て、中身は最澄に至るまでにかなりの時間を要したという長谷川宏の説が興味深かった。 日本に民主主義が「伝来」し定着するまで、やはりかなり時間がかかり歴史的段階が必要なのかと慨嘆したのだった。

f:id:hotepoque:20180328214901j:plain  f:id:hotepoque:20180328214928j:plain

今日借りていた本を返しに泉野図書館に行った。雪が降って外出が面倒になっていたが、午後どうしても部屋にいることが苦痛になって出かけることにした。公開ホールにはちょうどいいくらいの利用客がいた。 本を返して何となく次の本と出会えないかぶらぶらして、ふと見上げると2階がギャラリーになっていて10数点の油絵がかかっていた。2階に初めて上がって間近に順番に見ていくと、ユトリロ風の絵に目が止まった。 ああ、この人もユトリロのパリに心を奪われたのだなと思い、ぼくは自分の過去をも思い出した。美大受験の高校3年の冬に部屋にこもって、(冬になると少年のぼくは冬眠していた)図書館から借りてきたユトリロ画集から気に入った絵を模写していた、、、、。あの頃の雰囲気が心に湧いてきた。それは現実の空虚をあこがれの風景と物だけで埋めてしまうという「部屋の中の熱情」だった。思いっきり世間知らずにいられて、内面に閉じこもることが受験生ゆえに許されていた。ぼくにとって幸福な時期のひとつだった。