開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

自分には才能らしきものがあったか

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それにしてもどうしてぼくらは、あらかじめ青春を失っていたのだろうか?失われていたのは、破壊されていたからだろうか?きっと大学という場のどうしようもない自由さが、虚しさを作り出していたのかもしれない。ぼくの入った美大では、みんな絵描きやデザイナーという職業に憧れて集まってきた連中ばかりだった。彼らは恐ろしく競争意識が強かった。一人で自分の世界に閉じこもるのがうまく、できるだけ周りには冷笑する態度で臨むような、こつこつ腕を磨くタイプの大人たちだった。ぼくはどこかで仲間集団や村ではない共同体のような場を求めていたような気がする。

美大にはちょっとした知名度のある劇団があって、その集団には魅力を感じたがどこかで自分を拒否するものがあった。歌ったり踊ったり演技したりすることが、ぼくには苦手だった。何しろ幼稚園のお遊戯の時間が嫌で逃げ出したかったくらいだから、生まれながらのシャイと言ってもいいほどだ。

せっかく苦労して入ったのに、入学してしばらくすると志望大学を間違えてしまったことに気づかされた。確か5月頃にはもう受験勉強を始めようとして、少し高校の時の参考書を取り出して勉強していた気がする。しかし、もう一度受験するだけの気力が湧かなかった。再受験を決心するまでの絶望と希望の深さが足りなかった。ぼくの友人の一人は神戸大学から金沢大学への転入に成功していたが、ぼくには明確な転入のビジョンが描けなかった。今、明確なビジョンという言葉を使ったが、これにはどこか欺瞞的な匂いがある。そんなものが実際にあるのなら、迷いなどはなくなっているはずだ。要するに決断するその時に、自分が人生に訪れる数少ない運命の場面にいることが感じられなかったのだ。小説の中ではよくそういう場面が描かれていたりするが、ぼくにはそれを感じる感受性がなかった。

もし、自分の運命を自分で切り拓いていくことができるのなら、その体験こそ一番望むところだ。もし、自分に明確な才能の在りかがわかるのなら、それもできただろう。

才能らしきものは何もないが、ここまでなんとか生きてきたことにそれに類するものがないのか、分析してみる価値はありそうだ。むしろ、分析する能力の方にぼくの本領とするところがあるのかもしれない。