自分の運命を自分で、自由を確保しながら拓いていく、ということが果たしてできるものなのか?先のブログにも書いたが、運命という状況をまず認識できなければお話にならない。その状況が何で構成され、そのうち具体的で目に見えるものがあれば、それを感じるだけの感性がなくてはならない。ぼうっとして鈍いぼくには、言われた言葉の意味の方ではなく、言わずにほのめかす時の表情や仕草の意味に気づくという芸当は不可能に近い。64年間という人生でそのように自分のそばを通り過ぎていく、未明の運命というものがどれだけあったことだろう。例えば、運命というに相応しい状況が半分ぐらい訪れているのに、ドラマにあるような、直接会って本当のことを打ち明けるということができなかった。会うことなくそのまま別れてから、取り残されることがどんなに辛いかを思い知った。
大学進学が入試の結果を見て確実になって、ともかく心が晴れ渡った経験を味わっていたころ、付き合っていた同級生のAから電話をもらった。受験に失敗して浪人することに決め東京に行くから、と別れの電話だった。本格的に受験勉強を始めた3か月くらい前からその彼女とは疎遠な関係になっていた。Aは東京に行く前にぼくの声を聞きたくなって電話してきたと思われ、予定した報告をしたあと、ぼくに今読んでいる本は何かと訊いたのだった。ぼくは真継伸彦の「光の聲」と、ただ事実だけをそのまま答えた。Aは自分も同じ本を読もうとしたのかもしれない。しかしその小説の内容は、僕たちの関係に深い溝を刻むような運命を描いていた。(もちろんそれは読んで初めて分かることだったが)Aの父は共産党員で、いわゆる専従で組合から給料をもらう身分だった。
Aはぼくにとって運命的と思える存在だ。何か運命的要素に客観的事実が必要だろうか? 高校3年の時の同級生であるに過ぎないならそう呼ばないはずだが、ここであれこれ事実を振り返るには少し気が重い。ただ平坦なぼくの人生の中で登場する、平坦さにおいてさほど違いのない人たちとは異なる部分があり、それがいつまでも忘れがたくさせている。
どこか気取った喋り方をするのは村上春樹の小説中に出てくる登場人物に似ているかもしれない。プライドがあり自分の世界観の中で自信に揺るぎがない。つまりひとつの存在であり、自分の影響力を試して存在感が増すのを見るのが好きなエゴイストかもしれないと疑うこともあった。絶大な父と対等かそれ以上のキャラクターで対応するくらいの力を付き合う相手に求めるところがあった。無情であった頃のぼくがAを冷淡に扱い、後になってかけがえのなさをAに見出した時、逆にAから冷淡な扱いを受けた。傷つけ合うと同時に引き合う力を感じ、ライバルのように尊重し合うような関係だった。
小説「光る聲」にはAの父と同世代の共産党員の大学教授が登場し、戦中には特高の転向強要で瀕死の状態に遭い、1956年のハンガリー動乱時にはソ連の侵攻に反対する決議を日本共産党に出すという歴史的事件を描いている。世界史にはおびただしい死者が記録されており、20世紀には二人の人物が死者を量産する究極の悪を執行している。ヒトラーとスターリンだ。ハンガリー動乱を鎮圧したソ連に明確に反対する反スターリン主義を普通の私たちの歴史に登場させるには、「光る聲」に登場する共産党員やAの父のような人たちの苦悩を受け止め、乗り越える必要があると思っている。