「嘔吐」を「社会学的分析」の対象にする読み方や、「嘔吐」作品が成立する様々な条件を「解剖学的読解」で読みとる読み方をこのブログ筆者は退ける。
なぜなら、私にとって自分の方を向いた「嘔吐」こそが問題だからである。自分の人生、自分の経験の中に「嘔吐」を投げ込むこと。「嘔吐」の中に自分の人生、自分の経験を投げ込むこと。徹底的に主観的に「嘔吐」を読み込むこと。自分自身を徹底的にロカンタンの主観の中に投げ込んで、彼の精神の追体験をすること。意味作用の剥げ落ちかけているロカンタンの孤独な精神を追体験すること。誤読すら恐れるつもりはない。むしろ積極的に誤読してやるつもりだ。なぜなら、ここでは「嘔吐」を語ることは私を語ることになるからだ。
それほどに「嘔吐」と筆者の出会いは「運命的」だったのだ。もちろん運命を感じるには状況と自分の立ち位置を自由に反省する理性的態度が必要であるのだが、ぼくは筆者のブログを読んでそれを認める。もとよりこのブログ筆者の小説の読み方こそは、ずっとこれまでぼくが採ってきた読み方の態度だった。
出会いについては以下のようにブログには書かれている。
このJ・P サルトル「嘔吐」との因縁は20年前にさかのぼる。そのころ、私は世界の中に居場所をもたなかった。ロカンタンのように。未来も想像できない状態で、ただただ無意味で宙吊りの現在があるだけだった。まったく、よく発狂してしまわなかったものだ。青年期の不安の中で、狂気は常に私の孤独の隣人として身近に存在したからである。ロカンタンの独白に「人間がひとりで暮していると、語るとはどういうことであるかさえ、もうわからなくなる。ほんとうらしさは友人と同時に消えてしまう。」というくだりがあるが、これは当時の私の置かれた状態にそのままあてはまる言葉だ。建物も、駅も、道路も、坂も、家も、飲食店も、すべてが自然な姿を剥奪され、漂白された中性的立体物の組み合わせに解消されてしまう。
その無機質な空間を漂う私もまた、脱自然化され漂白された自我であり、その冷たく白い自我の殻の中では、熱病のような自意識が真っ赤に煮えたぎり、ねずみ花火のような独白の言葉が駆け巡るという風であった。そのころの私がなぜ、この書を手にとったのだろうか。自分を支えてくれる何かを欲していたのは確かだ。20年前の自分が、この哲学的小説をどこまで理解できていたのかわからない。
しかし、今でも、独りで街を彷徨うとき、公園を歩くとき、図書館をぶらつくとき、酒場で杯を傾けるとき、傍らにいつもあのロカンタンがいることに気付くのである。孤独は自分の中に巣食い、もはや自分の精神とは切り離せなくなってしまった。
ブログ作成時が40歳で20年前が二十歳ということになる。(幾分ざっくり感があるが)彼はどこにも自分の居場所と感じるところがなく友人もいなくて極度の孤独の中で、生きる指針を求めて「嘔吐」を読んだ。そして小説中の世界の感じは20年経っても筆者の現実の生活基調と変わらなかったようだ。ここに小説とともに現実世界を生きるという視点がある。普通に生きてる人はもっと偶然に開かれ、お金や快楽に衝動的に反応してしまうと思うが、彼は極度の孤独状態から逃れられないかに見える。彼の40歳の生活場面である出来事と小説の場面と対比させている記事がある。
先日、自分でも信じられないようなミスをして、客の前で上司に殴られた。私を苦しめるのは肉体の痛みではない、屈辱感が問題なのだ。40歳のいい大人が小僧のように殴られる。丁稚のような自分の立場と不甲斐なさがよくわかった。困ったことに屈辱は反芻される。胃袋で消化したものを口の中で咀嚼するように暴力を受けた屈辱の記憶を繰り返す。「嘔吐」に次ぎのような記述がある。図書館でコルシカ人に暴行を受けた独学者のその後をロカンタンが想像する場面だ。
「同じ壁の中をではなく、この無表情な壁の間をでもなく、彼を忘れぬ凶暴な街の中を独学者は歩いている。彼のことを考えている人びとがいる、コルシカ人、肥った女、多分街中全部の人が。独学者は彼の自我をまだ失わなかったし、失うことができない。あの責めさいなまれた自我を、みんなが止めを刺そうとはしなかった血塗れた自我を。唇や鼻孔が痛む。「気分が悪い」と彼は考える。彼は歩く、歩かねばならない。もしも一瞬でも立ち止まったならば、図書館の高い壁がふいに彼の周囲にそびえ立ち、彼を閉じこめるだろう。コルシカ人が彼の脇にふいに現れ、こまかい点までさっきと寸分変わらない場面が再びくり返されるだろう、そして女が嘲るだろう。『あの厭らしい奴らは徒刑場行きにすべきだわ』。独学者は歩く。家に帰りたくない。コルシカ人が例の女と、ふたりの男の子といっしょに彼の部屋で彼を待っている。『否定してもはじまらない、あんたのすることを見たんだよ。』そして同じ場面が繰り返されるだろう。彼は考える。『ああ、あんなことを、もしもしなかったならば、あれをしないで済ませたら、あれがほんとうでなかったらならば』」
サルトルの記述は誠に巧みだと思う。暴行による屈辱で混乱した自我、思い浮かぶ想念をよくもここまで正確に記述できたものだと思う。サルトルはよく知られた不条理と実存の哲学者だ。しかし、また自由の哲学者でもある。そこで気づいたことがある。
俺は勘違いしていたのではないか、ということだ。会社という「ムラ」の中で安穏と支えられていきている、自尊心を捨てて、あえて鈍感になって、好きでもない仕事して、そうやって「ムラ」の中で自己卑下して居場所を確保する。こうした屈辱の生活を選んだのは自分だ。人ではなくて自分だ。
サルトルならこういうだろう「君は自由だ選びたまえ。」自分は学歴や階級や身分のせいにばかりしていた。俺は餓死する自由もある。貧困になる自由もある。しかし自分の人生を自分の思う方へ投企する自由もあるのだ。惰性による明日の安穏を夢見てはいけない。自分の峻厳な自由を噛みしめなければならない。繰り返しいう、俺は自由だ。そして、俺は俺の、この暗闇の中にひとり立ちすくむ自由で孤独な自我の尊厳にめまいがするのだ。
ここではブログ筆者は「嘔吐」中の独学者に自分を同化させ、一旦小説の世界から外に出てサルトルと対話して自らの指針を見出そうとしている。一冊の本が本当に支えになっている。そこで、「嘔吐」の「書く視点を見つけるまでの意識の流れ」というテーマに向かうわけだが、今日はここまでにしておこう。