ぼくが美大を受験する前の年は、県内でも進学校として知られる高校にもかかわらず美大に入学した先輩が14,5人いた時代だった。ほとんどがインダストリアルやコマーシャルデザインの方で、油や日本画や工芸の方には進まなかったように思う。(途中で転校した先輩もいたらしい)コマーシャルでも横尾忠則や糸井重里のようなスターが活躍し始める頃で、社会の仕組みに取り込まれない暑い空気感も感じられた頃だった。ユーミンは多摩美大、村上龍は武蔵美出身で、必ずしも美大だから美術関係の進路に進むとは限らないのではあるが、地方の美大からでは、音楽や文学関係の進路に進むには才能が多方面に創発される刺激に乏しかったかもしれない。ぼくは受験選択を間違ったかもしれないという思いから自分を懐柔させる曖昧さに逃げ込んでからは、デザインに縛られずに、つまりはデザイナーの道を放棄して芸術一般のフリーパスポートを手にしたことにして、片っ端から興味のあるものをかじることにした。ジョン・ケージや高橋悠治の現代音楽を聴き、マルセル・デュシャンやフランク・ステラやデ・クーニングなどの現代美術に触れるようになり、シュールレアリスムやロシアフォルマリズムの文学や美術「運動」というものにも興味を持った。針生一郎や美術手帖に載っている評論家の論文にも刺激を受けていた。つまりはあの時代が吐き出して発散していたエネルギーを貪欲に吸収しようとしていた。その頃のぼくは心に飢餓を抱えていたので時代のカオスで満たす必要があったのだと、今では思っている。