開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

マイ・リーディング・イヤー

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大江健三郎は自分の文学上の導き手の作家の本を集中して3年かけて読む、とどこかで書いていたように思う。おそらく3年かけてその作家の本を全て読むのだろうと思う。あまりぼくは大江健三郎のヘビーな読者ではないが、ウィリアム・ブレークやイエーツはそのように読まれたのではないかと思われる。61歳で退職してぼくも誰か一人の作家を決めて集中して読もうと思った。最初はとにかく長編小説を読んで定年後の文学的人生を始めようと考えた。大河小説や全体小説は退職した身ではないと時間の流れが「同期」しないので今だから読めるという理由と、昔買ってあってずっと本棚に眠っている分厚い本を放置できないという「物理的」な理由があった。「同期」するというのは生活の方に小説の世界がかなり侵入してきて、小説の進行とともに生活が並走するような感覚を指すが、それは短編小説では無理なのである。一度その味を覚えるとクセになってしまうので、例えば村上春樹ファンの中には小説とともに暮らす数日が濃いものになっていると推測される。国境の南、太陽の西」を吉本ばななが「あれだけのことを言うのなら長すぎる」と批判していたが、ファンにとっては長さは必要なのだ

ところで、定年後の最初の長編小説はあの野間宏の「青年の環」なのであった。これだけを毎日読んでも1ヶ月はまるまるかかる量で、十分のめりこめる世界であった。次に読んだのは、あのロマンロランの「ジャンクリストフ」である。この主人公の生涯をともに生きることで、自分も一つの人生を過ごしたような気になる。主人公は音楽家であるから独特の熱があり、21世紀の現代ではさすがに熱は冷めるだろうが、19世紀ではロマンのままに生きることができて楽しめるのがいい。

その二つの長編の後はいよいよ誰を集中して読むかを選択する段階に進む。結果としてサルトルを選んだわけだが、選ぶ前とか選んだ当初は明確な理由が見つけられず、またそれまでの認識ではサルトルは完全に過去の人だったので、果たして集中が持つか心もとなかったが、最初の「嘔吐」から「自由への道」まで読んで選択の正しさに確信が持てた。それと世界的にサルトル復権してきていてよく読まれるようになっていたこともあり、小説から戯曲に進み哲学にも北見秀司氏の解説の助けを借りて読み進んでいる。ぼくの62歳から64歳はまさにサルトルイヤーであった。