開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

何もない日にあの時をふり返る

今日はゴールデンウィーク終盤の土曜日だが何も予定がなくずっと家にいた。ブログを書こうとしたが何故か書く気になかなかなれなかった。昨日と一昨日に「風と緑の楽都音楽祭」でモーツァルトを聴いた感想などを書くつもりだったが、あらかじめ何を書くかがあると反対に書きたくなくなるのはどういうことなのか、不可解な心理ではある。それで昨日のブログを書くときの動機のようなものを思い出してみると、日常の生活を書くことがぼくにとっては新鮮な気がしたことに思い当たった。ある意味それは裏切りだった。不幸にいるはずの人間が普通に楽しんでいると、ひょっとして誰かが感じてがっかりしたのではないだろうか?(一人の読者がいなくなり122人になっていた)村上春樹を読みはじめの頃、あまりに都合よくセックス場面が出てくることにうんざりしたことがあった。まるでポルノだとする年配の女流作家もいたくらいで、その通りうなずけるのだがそれでも世界に一人立ち向かう姿勢があるのでこれまで付き合ってきている。村上春樹マルクスがプロレタリアを歴史の主人公としたことに凡庸さを見たとどこかに書いていたが、生活に余裕がないと芸術に触れることは難しくなるのは動かしがたい真理である。実生活の中にいる人生からは何も学びとれない、それは認識の構造上不可能なのだ。全ては過ぎて実生活の外に出てから認識が始まるのだ。恋が終わって初めて恋だったと知る。サラリーマンの環境が終わって初めて企業の異常さを認識できる。人間は存在させられてのちに自分の本質が分かるようになる。やってみなきゃわからない、、、そんな風にできているのだ。やっとモーツァルトのコンサートのことを書く気になってきた。これまでぼくはピアノソナタ弦楽四重奏などの室内楽をこちらから入り込むようにしてモーツァルトを聴いていたが、コンサートでは一転して交響曲好みになった。音楽堂全体が沸きかえるような楽器の饗宴というものにこの音楽祭で体験してからは、いつも交響曲のコンサートメニューを選ぶ。今回は交響曲ではなく、ピアノ協奏曲という形式に出会った。ピアノ協奏曲20番と21番だ。20番の方はDマイナーでモーツァルトの天真爛漫さのイメージにはそぐわない暗い情熱を味わった。フランソワーズ・モレシャンもコメントしていたがエモーショナルな演奏があちこちで演じられたようだ。モナ・飛鳥のピアノはまさにエモーショナルで、ぼくは彼女の表情とザルツブルグから来た楽団との掛け合い(ピアノの演奏部が終わると瞬間腰を浮かし手をバレリーナのように持ち上げて下ろすのだった)を10メートル未満の席から感じていた。

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