開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

ブログ空間について

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今日目覚めのまどろみの中から思考力が立ち上がってくるとき、次第にブログの事が気になっていることに気づいてきた。昨日ぼくのブログのアクセスが2件だった。アクセスが何も投稿しなければゼロになることが予想される。別に読んでくれる人のために書くわけではないのだから、ゼロになっても書きたければ書くので構わないのだけれど、なぜか気になるのは読んでくれることを期待していることになる。やはり読まれることを前提にしているのは確かだ。

ぼくは妻にブログを書いていることは伝えている。でもそれを読もうとはしない。そもそも本はほとんど読まない人であるし、ぼくの書いたものを読むのもめんどくさいのだろうと思う。ブログを書く理由とか書いて何が得られるのかは、多分よくわからないのではないかと思う。ぼくもそれを聞き質すことまでしようとは思わない。ただパソコンに向かっているのをぼくのかけがえのない趣味ぐらいには考えてくれている。1年前あることで妻を心底怒らせた時、携帯とハードディスクは破壊されたがパソコンは破壊を免れた。こんなことまでついに書いてしまって自分が無防備になっていくような気がするが、書き続けるということはそういうことなのかもしれない、、、

このブログには一人だけ現実世界の他者が登場しているのだが、彼には友人としてこのブログのURLを教えている。でもその友人もあまりぼくの書いたものには興味がないらしい。メールのやり取りはするが、いわゆるパソコン嫌いの部類に入る年齢ではあるのだ。(ぼくはどちらかというとパソコンおたくで昔はリナックスで遊んでいたくらいだが、同年輩では珍しいみたいだ)

とにかくブログでは知り合いがいないという環境を持つことができていて、知らない他人だけがネットで繋がっている世界が自分には心地いいのだ。現実のぼくを知る人が誰もいないところで、日頃の自分とはちょっと違う人格を表現してみることの快感を書くことで経験しているわけだ。ところで今朝まどろみの中で感じていたのは、この素の自分を知らない他人と、自分の書いたものを中心にゆるく繋がっているブログ環境というものの存在感なのであった。静かで宇宙のような冷たさはあるが、エネルギーと運動はあって未知との遭遇という存在を賭けた冒険がある(らしく感じる。)その空間をもっと十全に感じてみよう。誰も知らない知られていないからこそ、(いつも先の方にあって)書きたくなる創造的な空間のことを。