ぼくが好きなのは非日常だ。日常の惰性や安定を揺るがすちょっとだけ異常な世界だ。星野リゾートにはそれを提供しようとする姿勢があるから好きなのだ。もちろん小説が一番手頃なツールなのだがその提供者にはいろいろ好みがあったり、読者に厳しいか優しいかの違いがある。一番しんどくて時には生死につながりかねない恋愛という非日常は、人生そのものがかかっている。行動派の人だったらお金のかからない旅行を知っていて、手軽に非日常を味わっているかもしれない。ぼくは行動派ではないので、じっとしていても非日常を味わえる詐術を作り出す。
なんと単純であることかとみんな驚くと思うが、それは書くことだ。(それは、村上春樹が英語人格で「風の歌を聴け」を書き始めたことに関係している)
書くときの意識の状態は非日常であり、何を書くかさえ気を付けていれば意識を持続させることができる。意識を自在に操れる詐術というものを手に入れることができれば、ぼくはいつも好きな世界に住むことができる。子供の世界は非日常に溢れている。夢中で遊んでいる時、彼らは非日常に居る。別に詐術を使わなくてよくて、友達がいればいいし、一人でも面白いと感じさえすればいい。
ちょっと前、ぼくは自分以外の他者を登場させようとして失敗して疲労困憊から眠ってしまっていた。小説には主人公以外に様々な登場人物が存在する。ぼくを主人公とすると結婚していれば妻がいるし、兄弟やいとこがいて父や母が必ずいる。幼稚園から小学校、中学校、高校、大学校へと進む中で接する先生や友達や友達の親がいる。就職すれば会社という場に進み、労働や生産や市場や商品や余剰価値や職場の人間関係などが様々に登場人物を主人公の周りに存在させる。これまでぼくは、かろうじて妻は登場させることができたが、親となるともうダメで、ましてはサラリーマン時代の社長や上司や部下やお客や取引関係の人となると全く登場させる気が無くなる。まだまだ修行が足りないのだろうが、とにかく書き続けることはしたいと思っている。そして何よりも良い作品を読むことが続けられる栄養を与えてくれる。今、坂口安吾の自伝集「風と光と二十の私と・いずこへ」(岩波文庫)を読んで、これまでにない自由感を味わっている。鬱も統合失調症も狂気も自殺も別に気にならなくなるほどの、凄まじい文学修行がクールに書かれてあった。