開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

「引きこもる」精神の場所

画家が創作に没頭している時間、作家が小説に従事して就筆している時間、アスリートが黙々と練習に打ち込む時間、思想家が大胆な仮定から次々に着想が浮かんでくる時間、詩人が魂の高揚に身を委ねている時間、哲学者が問いの方法と場所を確立しようと思索している時間、職人が道具の手入れを工房でしている時間、大学教授が研究論文に手を入れている時間、これらの時間は内的に閉じられて中で充実していて、主体からすれば「引きこもり」の状態であるはずだ。

だから引きこもることは生産的で創造的な状態に入ることを意味していて、本能的に人間はその状態を求めるものだと思う。引きこもることに問題があるとしたら状態にあるのではなく、主体がすでに社会的に認められているか否かにあるのではないだろうか?

画家でも作家でもアスリートでも思想家でも詩人でも哲学者でも職人でも大学教授でもないとしたら、あなたは引きこもることを許されないのではないだろうか?資本主義システムでは労働や生産に従事せず、商品にならない事や物は排除される運命にある。

会社を定年退職したぼくは排除されずに引きこもる場所をどこかに持たなければならないと思っている。学生は大学や学校に属するように要求される。定年退職してフリーとなって一時は学生の身分に戻ったような気分でいたが、入学試験を受けて合格しない限り学生には戻れない。これは動かしがたい社会的現実である。定年退職して書くことを自らに課しこれまで書き続けてきて、書きながら考えることを覚え、今存在について考えるようになっている。存在を更新するには何をすればいいのだろう?

求めよう、求め続けよう、求道者になろう、坂口安吾のように。

f:id:hotepoque:20180611091946j:plain