開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

過ぎていった昨日

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ふと思ったことがだんだんと重みを増して本当らしく思えてくる、ということが起こっている。もうブログを書く必要性がなくなったのではないかとふと思ったのだ。これまで書くことで自分という人間を存在させようとしてきたのだが、書かなくても現実にというか日常に存在できるのではないかと感じ始めたのだ。誰かに読んでもらうことで、他者の目を意識するとそこに自分がいることの幾分孤独な楽しみより、今世界に存在する充足感を少しは多めに感じ出したのだろうか?

もとより健全で自然なことだから、喜ばしいことに違いない。年金生活者としてサラリーマン時代には経験できなかったことをするという、当たり前のコースを自分もしている。ちょっと前までそのことは認めたくなかったはずなのに、認めることで何が起こるか見てみようとする自分がいる。

土台を変える必要を感じている。失われた38年を取り戻すのは変わらないとしても、38年間強制収容所生活を送ったとするのはあまりにも文学的な比喩なのではないかと、反省するゆとりができてきたのかもしれない。強制収容所という比喩はサラリーマン時代の自分を殺してしまう便利な表象だった。でもさすがに死の恐怖のもとに置かれたわけでもないし、自分可愛さに仲間を裏切るような人間関係ばかりだったわけでもない。支配の本質は変わらないとしても、上辺上は自由に生活できる装いを与えられていた。そういう過去を書くことで存在させたくなかった。ところが、かのヴィクトール・ E・フランクルは「夜と霧」を書き上げたのだ。悲惨な、これ以上の人類の悲惨はないと思われるアウシュビッツでの経験を書くことができた精神力を前にして、ぼくはそれを読むことしかできない。強制収容所という比喩を安易に使った自分を恥じながら。