開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

文学を人生の「旅」として読む

「旅」のメタファーが自分の人生を振り返り、納得感の得られる形象なのかなとふと思えた。「旅」の最終目的地というものはなく、いろんな場所にある時しばらく過ごしてまた次の場所に「旅」することが、人生の送り方の形に近いのではないかと気付いたのだった。すぐ思いつくのが松尾芭蕉の「奥の細道」の冒頭の句の、「月日は百代の過客にして、行き交ふ年もまた旅人なり」だが、ディケンズの「デイヴィッド・コパフィールド」やゲーテの「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代」などの教養小説なども人生の「旅」を感じさせる文学のように思われる。 このように人生を「旅」と考えると、経済的な成功云々や支配被支配として人生を見る功利的な世界観から解放されるように感じられる。自分の人生は自分のものだ。何も世間的な見方や価値観に囚われて過ごす必要はないはずだ。これまで旅で訪れた都市は、ジャカルタ、バリ、シンガポール、クワラルンプール、ニューヨーク、サンフランシスコ、パリ、ウィーン、ローマ、ベネチアフィレンツェマドリードグラナダセビリアバルセロナ、キャンベラ、シドニーゴールドコーストであり、それぞれに思い出が断片的に残っている。しかしぼくは場所の移動ではなく、時間の移動の方に「旅」のメタファーを考えてみたい。「旅」の始まり、道中、「旅」の出会いから別れまで、初体験での新鮮な驚き、名残惜しさの感覚、「旅」の思い出に浸る、次の旅への憧れ等々が考えられる。例えば、海外旅行初体験で初めてジェット機で離陸を体感した時や、ジャカルタの空港に降り立った瞬間の気だるい空気感や、バリで田んぼ風景に日本を感じた時や、夜ニューヨークに向かうバスから見た夜景の凄さや、日本に帰ってきて成田で日航機の挨拶アナウンスを聞いた時の満ち足りた気分などが旅の経験としてぼくの心に沈殿している。それらを旅行記にまとめられたら素晴らしいのだが、、、

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