この作品に本屋大賞受賞とか、人気俳優による映画化という話題性から出会ったわけではなかった。野々市市の読書会で課題本に取り上げられて、メンバーから今その小説の映画が上映中だとメールをもらうという、きっかけがなかったらおそらくぼくの読書範囲に入らなかったことだろう。
小説を読んだ時に、主人公の外村が「世界」という言葉を使ったことに興味をもった。ずっと北海道の山奥の村で高校まで家族の中で生活し、森とともに育った思春期の主人公は、調律師と出会うことによって森の中の音とピアノの音がシンクロするような不思議な体験をする。ピアノの音を調律することは世界に漂う音を集めてチューニングするようなイメージを少年に与えた。森をピアノの音で内面化でき、それが田舎の狭い世界とは別の世界へ誘う情熱になった。調律師という職業を知り、確かな情熱を現実にするために故郷からの脱出を決意する。その時「世界」という言葉を使ったのだが、家族全員の全くの無理解に直面する。就職して何年か経ち母の葬儀で帰郷した時には、弟から「世界ってなんなんだよ」と問い詰められ、嫉妬とも取れる批判的な言葉を浴びせられる。どうして田舎育ちの少年が「世界」という言葉を使うことができたのだろうか?ぼくにはそれが不思議だったがちょっと作者の宮下奈都の文学少女時代が入り込んでいるのかも知れないと感じられた。
「世界」という言葉、ぼくの高校時代では「世界」という観念といった方がしっくりするのだが、ぼくも「世界」が頭の中の中心を占めていた。貧乏で職人の息子であるぼくにとって、狭くて息苦しい現実の反対が「世界」であった。自分とは無関係に動いている他者の全てが「世界」というもので、それはとにかく未知なもので埋め尽くされていた。だから新鮮であるとともに「知る」ことが先決だった。今から思うとその頃は幸福だったかもしれない。自分は何にもないから気楽だった。何をしなければならないかという問題から離れることができたからだが、それはしっぺ返しが何度も押し寄せる、逃避的態度を作ることになった。その時、道を誤ったのかもしれない。調律師という道は資本主義社会を生き抜くには素敵な幸福な道のようにぼくには思える。実にラッキーであり、ピアニストほど成功の確率は低くはないけれど、誰もが目指せる道ではないことは確かだと言える。
ぼくは道を誤って他者の世界に進みサラリーマンになったが、「世界」を知っているサラリーマンであり、言わば脱構築されたサラリーマンだった。そういう存在を生きて書いてみたいと思っている。