これはカフカをめぐる自分の中のつぶやきにすぎないので、誰かが読んでも何の参考にもならないことをお断りしておく。、、、などと偉そうなことを言って自分にとってしか意味のないことを書き付ける場というものをありがたく思う。来月ぼくの住んでいる野々市市という金沢の隣の街の公民館活動の一環で、合同読書会がありぼくが課題本を選んで司会をすることになった。課題本はカフカの短編「判決」なのであるが、どうして選んだかというと「短い」からが第一の理由になるというお粗末なことであるが、何しろ26部を参加者のために自分でコピーしなければならないから短くなければ大変なのである。
さて自分が司会となると少なくともカフカを自分なりに解説しなくてはと思う生真面目さがぼくにはある。カフカと自分を何かで関係付ける必要があると思い込んでかれこれ1ヶ月ほど経ったことになる。カフカ入門的な本があり、坂内正の「カフカ解読」という新潮選書を若い頃買ってあった。その時はよく読めず挫折していたのを読み返したのと、村上春樹の「海辺のカフカ」を読んだ経験から何か自分でも言えることがあるような気がしていたのだった。
ぼくはカフカと村上春樹の共通性は何かと考えていたようだ。カフカと村上春樹を同列に置けないから、村上春樹がカフカから学んだ最大なことは何かと言い直さなければならないが、それはカフカは自分の小説の中で生きることに賭けた人生を送った人で、その生き方を村上春樹は1968年を生きてからの人生を送るのに学んだのだとぼくは思う。小説家になることを商業的な成功の一つとして目指さないのはもちろんなのだが、虚構の方に人生の主軸を置き自分で自分の人生をつくる(=書くこと)という「受難」を選んだことが共通しているのではないかと思った。もとより小説家という人種はそのような生き方を選んでいて、作家なら誰でもそうなのかもしれないが、自分とは別の世界を描く作家もいるからそういう作家と二人は明らかに違う生き方をしていると思う。むしろ自分であり続けるために作家になっているし、具体的な書き方もカフカが拓いた方法があり、詳しくはぼくは書けないが小説世界を成り立たせる文体(実人生の小説への取り込み方)が独特なのだろうと思う。
とにかく合同読書会では、カフカ文学の文学に対する愛を感じて欲しいとコメントしようと思う。