開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

「故郷化」して世界内存在として自立する

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ぼくが何かを書くとしたら、現在の場所を「故郷化」して世界内存在として自立する、それは資本主義的生との対決の場になる、というようなエッセイとなるだろうと以前ブログに書いた。「故郷化」については何の説明も加えなかったが、「故郷化」の故郷は、ぼくの幼年時代の金沢の庶民的な生活環境が原型となっている。それはサラリーマンになって故郷を喪失した時に面影として求められるものになった。昔の人(ぼくの親世代の人々)なら共通して持っていた心の内風景といったもので、挨拶やいたわりや気遣いの時にそれぞれが共有するに至る感情なのである。「袖振り合うも他生の縁」という仏教語が生きていた時代があり、街に住む他人は縁を共通にすることが暗黙のうちに了解されていたのだった。それは鬱陶しいものではなくて、愛情というほどではなくて、温情というか当たり前感というような感情だった。欧米人と同じ合理的価値観を持つ現代人には、初めからないものかもしれない。金沢という街にはその片鱗が感じられるので、観光客が惹きつけられるのかもしれない、、、

しかし、「故郷化」とは一旦失ったものを再生させる方法についてその原理を明らかにしようとするもので、観光という商業では一時的に過ぎない再生をいつでも再生可能な、書かれたものにしなければならない。それはぼくの心深くに降りていかなければならないし、追体験が可能なほどに普遍的でなければならない。ぼくの心深くに何があるのだろうか?