意識の中に「私」はいない。「私とは一人の他人である。」
そして、意識は、「内部」や「内容」をもたず、
それ自体が「絶対的内面性」である、
とサルトルは言う。
意識と「私」という自意識を区別している。意識をそれ自体として私から切り離して分析すると、「絶対的内面性」であり、私はむしろ意識上は他人であると言っている。ここで取り上げられている意識はデカルトからフッサールに至る哲学が問題にしている意識だろうと思われる。哲学には容易に私などという主観が入ってはいけないのだ。
いや、そうではないかもしれない。主観、客観の二元論を誤りとするところにフッサールの現象学があったはずなので、主観が主観のまま客観と一致する方法が現象学だとしたら、私は他人と同じになるのだろうか?
サルトルはむしろ私は他人と同じで分かりようがないと言っているような気がする。私は即自存在であり永遠に意識が到達できない存在なのだ。そういえば、実存は本質に先立つというのは、私の存在性のことを言っていて、自分で自分のやっていることの意味がわかる前に存在させられているものだ、と言っているのかもしれない。
そうだとしたら、私とは何かを問うことは、いつも私の過去についてだけ確かなことが分かり、未来については「無垢」であるしかない人間の真実を知ることになる、と言えそうである。