書くことで自分が残るようになると信じている部分がある。今書こうとすることは遠い昔の自分からすれば裏切りになるようなことだ。ぼくは格差社会は階級闘争の結果もたらされるという理論を信じていて、階級の上の者には真実を見る目がないと思っていた。しかし個人意識としてみれば階級規範を逸脱しない限りで時として「遊ぶ」ことも可能である社会が大衆消費社会だ。庶民で生活を切り詰めてでも高級車を一時的に所有することもできるし、海外旅行だってできる。
テニスは昔支配層のスポーツで、現天皇が皇太子時代に伴侶を見つけるきっかけにもなった。その場所を生活を切り詰めて可能になった三日間の「遊び」の中で現場に触れることになった。「軽井沢テニス会」といってテニスをする人間にとっては聖地の雰囲気のある場所だった。付近を観光者の目で行きつ戻りつしていると、30代と思える会員女性がコートから出てくるのと目が合った。その目は親しげで優しかった。差別的なまなざしでないのがちょっと意外だった。裕福なのはもちろんなのだが、テニス好きの庶民にはシンパシーを受け入れる心の広さがあるのだろう。ぼくの住んでいる地方都市で若いころ目にした富裕層とは違っていた。自分の人生に真摯に向き合っている感じがある。テニスウエアは白を基調とするもので、個人的趣味より自分たちの層としての生き方を重視する気風を感じさせた。おそらく還暦を過ぎたと思える夫人も個人コーチのレッスンに黙々と取り組んでいた。すでにボールの軌道はどこかの民間テニス教室で見られる域を軽々と超えていた。
普段見ることのできない光景を見た気がした。彼らにも真実を見る目はあると考えるべきだと思った。