夏は自分たちの世代では同窓会というのがある。中学と高校の同窓会の案内があった。中学の同窓会は家庭のイベントと重なり出席しなかったが、高校の方は出席したくなかった。同窓会に皆出席するような同級生の一人と会うのを避けたかったからだ。彼はぼくのFBに揶揄するようなコメントを書き込んだことがあり、それがぼくの世界史に対する良心的心情を笑ったように感じたのだった。もとよりFBの記事投稿を態度表明のように硬く考える人間は稀なのであるけれど、たまたま同級生の中にいるとは彼は思いもつかなかったにすぎない。でもぼくはそれを許さなかった。「ヒトラーさんに失礼じゃないか」などというコメントはぼくの想像を超えていた。
さて、大学の同級生の中に金沢で個展を開くという大阪在住の者がいて、金沢在住の同級生がお祝いに集まることになった。ミニクラス会になったわけだが、すでに美術やデザイン界から遠ざかっているぼくとしては現役のアーティストや関係業界者と会うのは億劫であった。図画工作の教員を退職した女子同級生とばかり話していたら、もう一人参加していた女子同級生から「藤井くんは少し老けたよね」と声をかけられてしまった。彼女にはそう見えたのだろう。自分がそう言われたら傷つくようなことを平気で相手に言う、その彼女にもぼくの想像を超えるものがあった。(美大出身者には変な人間がいる_それは必ずしもけなしているわけでもない_という了解を忘れていた。)
それはともかく、同級生からは当然「君」付けで呼ばれることに改めて気づいた。当然のことに違和感を少し感じた自分の方がおかしいのかもしれなかった。
ところで、同級生とはどういう存在なのだろう、それを書いてみようとしていたのだった。過去の学生時代一緒に過ごした仲間だとして、過去の自分が共有されている。多分ぼくはそれが嫌だったのかもしれない。過去の自分は今の自分ではないのに、今の自分と往々にして同一化される。おいおい馴れ馴れしく簡単に同一化しないでよ、と心の中で叫んでいたのだと思った。