開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

考えるとはどういう行為か

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「下手の考え休むに似たり」とはならない時、決して時間を浪費しているとは感じられず、むしろ充実感があるという経験をしている。どんな時か?空いた時間を何かをして過ごそうとするのではなく、どことなく物足りなさや人恋しく感じられるのを紛らわそうとするのではなく、仕事に関する下調べ的なことをするのでもなく、自分が今生きている(生かされている)ことの状態とその意味を問うている時だ。

会社を定年退職してここ2、3年は、文学を第二の人生を送る糧として、読書会にも参加しながら重点的な趣味にして多くの時間を割いてきた。サラリーマン時にはほとんど中途半端で終わっていた読書を本格的にしてみようと、丁寧に深くゆっくり味読するように楽しんできた。名作を読むことで、これまで痛めつけていた自分の心にどんどん栄養を送り込んできた。ぼくの心は満ち足りた優しさに包まれていることが多くなったと感じられる。

そういう自分にようやく到達できた今だからこそ、自分の半生を振り返ることができる。そしてそのことをこれまでブログに綴ってきた。それは回想という作業であり、必ずしも考えることではない。考えることの一部には違いないが考えることの主要部分ではない。では、考えるということはそもそもどういう行為なのだろうか?それはほとんど哲学に等しいのではないだろうか?だとしたら哲学とは何だろうか、それは人生にどのような影響を与えるものなのか?

今これを書いていて気づいたことがある。ぼくはこれまで哲学書をまともに読み通したことがない。小説は一冊の本を大概読み通しているが、哲学書は解説本以外では一冊も完了させた経験がないのだ。「存在と無」は一向に進まない。随分前に購入してある「精神現象学」も「純粋理性批判」も「方法序説」も「存在と時間」も「ツァラトゥストラはかく語りき」も「道徳の系譜」もちょっとかじった程度で投げ出している。そこにぼくの思考力の現実が現れている。気づいたからにはこれらの本を読み通してみなければならない。

本を読むのはそれとして、考えることというのは本を読んでからの自分の自力の行為でなければならない。それは私という媒体を深く厳密に掘っていくことのように思われる。