自分の環境において、何に親しさとか自分と似たものを感じるかという問題について考えてみたい。人間はもとより動物であるから、好きなものや事を近づけ嫌いなものは遠ざける性質を持つはずである。だから私が成長する過程で、気も遠くなるほどの選択を繰り返しながら「生きる道」を自ら作りながら歩んできているはずだ。例えば文学でいうと私は、日本文学ではなく海外文学を好んで読んできている。それは思うに現実生活の世界から逃れようとする力が働いていると推測することができる。私は貧困ではないが比較的貧しい家庭に育ち、欲しいものを我慢するように育てられた。我慢すると同時に、欲望をイメージの世界で満足させる心理的傾向を持つようになったという推測も成り立ちそうだ。、、、、このように書いてくると自分で読んでみてつまらなさを感じる。このような文体ではまず第一に自分が飽きてくることは間違いがない。
「ぼく」で書き始めて「ぼく」の文体で書き進めなければダメなのだ。
自己同一性を確認することでぼくは無限大からある範囲を限定することが、私を対象化する端緒のように思われた、、、というふうな文体で書いてみようと思う。私はどこにいるのかということだ。例えば長男であることによる同一性はあると考えている。長男は生き方の先行モデルを持たないが、次男、次女(長男より年下の長女も)は先行モデルを参考にすることができる。しかしぼくは心理学の領域にとどまっているようだ。哲学的に考えていない。埴谷雄高は気質を問題にしていた。気質も心理学用語だが、思考する上で気質が影響するとすれば気質を哲学の対象とすべきなのではないだろうか?
しかし、ここで立ち止まろう。果たして用語について心理学か哲学かを問うのは的を得ているのだろうか?仮に哲学的エッセイという分野があるとして、哲学で使われる用語ばかりで書くことは不可能ではないだろうか?いきなり不可能と決めてかかるのは哲学的でないのだが、多分読みづらくつまらない文章となりそうな直感がする。
端緒に立ち返って、考えるという思考規制を探ってみたい。考えるという行為自体に心理的な要因が絡むということだ。どうしたら厳密に考えることができるのか、という問題に最初にぶつかってしまう。、、、それでよしとしよう。厳密な思考、原理的な思考、思考する原因、思考の破綻がもたらすもの、思考の果てにあるものなどが考えられるが、それらと私の関係はどのようなものなのか?