昨日のブログで読書は孤独な行為ではないと書いたが、今日は真逆の読書は孤独な行為であるということについて書きたいと思う。なんだか昨日書いたことの中にウソが混じっている気がしたからだ。ウソとは言い過ぎで、あのような場では場を壊したくないという遠慮が働くのが大人だから、話の中では先生格の会長や司会役の人に同調的になるのも致し方ない面はあると思う。しかし話にして外面化しないまでも心にしまっている「未生の」言葉があり、それを「書くこと」で残しておきたいと今日思ったのである。
そもそも読書中というのは、意識を小説中の世界に集中しなければならないので必然的に孤独な行為になる、ということを言いたいのではない。孤独にならなければ書けないし、書こうとして現わせる微妙でささやかな心の機微というものがあるし、それを読み落とさない人というのは孤独を知っている人だと思う。昨日の読書会でいうなら、登場するチェロ奏者の若き芸術家を理解するには、プロの音楽演奏家のいわば業界内の厳しい状況を実情に沿って知っている人間の方が優位であるはずだ。読みの先生格の元国語教師にしたって、その道のプロの世界に詳しいわけではない。多くの参加者はそのことよりは、馴染みのある先生の読みに信を置いていたように感じられた。なぜ若きチェロ奏者がチェロを子供の頃に弾いただけの「アメリカ女の指導」になびいてしまうのか、その元国語教師はイマイチわからなかったようだった。ぼくに「そしたら彼はどうして指導をきいたのか」と質問したからだ。ぼくは「彼はその時自分の才能に自信が持てなくなりかけていた」という意味のことを答えたが、納得してもらえなかった、、、