開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

読むことについて

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ぼくがサラリーマンだった頃の上司の一人に、よく本を読んでいる人がいて割と話が合う方なので相談などもしていたのだが、文章を書くのは全くダメということであった。ぼくにとっては本をたくさん読んでいれば語彙が豊かになって、書くのにも困らないと思っていたから意外な感じがしていた。書くという行為には読むのとは違う何かが必要なのだろうか?そこで、書くのと読むのでは何が違うか、思いつくままに述べてみることにしよう。書く時には自分の知っていることしか書けないが、読む時は何でも読むことができる。自分のことは棚に上げて、興味の赴くままに果てしなく読むことができるように思われる。書く行為には詩や小説や戯曲のように創作という、形に磨き上げることができるが、読む行為にはそのような形式がない。読むのは表現でなく、外に現れない。誰かが机の前で本を熱心に読んでいるのをぼくが見たとしても、本の中身をどのようにして読んでいるかわからない。単なる時間つぶしとして村上春樹の小説を読んでいるのか、その小説の中に引き込まれるように感情を動かされながら読んでいるのか、側からでは分からない。読書の後で感想を書いて初めてどのように読んだかがわかる。これはどういうことを意味するのだろうか?ぼくが今気づいたことはちょっと常識外れかもしれないが、読んだだけでは存在せず書いて初めて存在する、というものだ。本を読んでいる間の意識の動きや働きはそのままでは存在できなくて、書くことで意識が働いたことがわかると考えられないだろうか?ただ意識が働くだけなら、脳波を測ればいいのだろうが、意識の内容は言葉でしか表せないのではないだろうか?

しかし、ここで書かなくても意識している内容が確かに分かる状態があることに気づいた。それは、つぶやいている状態だ。表に出さずに心の中でつぶやいている時は何をつぶやいているか自分には分かる。でもそれは他人には分からないのだ。

よく眠れない時、だんだん意識がはっきりしてきて頭の中で色々考えを巡らせていることがあるが、その時はつぶやいているのと同じだ。確かにその時考えている内容は分かっている。が、しかし目覚めると全く何をつぶやいていたのか忘れてしまっている。、、、そのつぶやきは果たして存在していたのか。意識というものは忘れてしまっては、存在しなかったと同じことになるのではないだろうか?ああ、読むことの不確かさにはもっと注意を向けるべきではないだろうか?