開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

未来の小説

自分の書いた小説の中に生きるような実験的な小説を何かタイトルをつける必要があると考え始めて、二日目の小説を書き始めてみよう。タイトルは少し考えてから、「未来の小説」が書きたい小説を表しているので取りあえずそうしておこうと思う。あまりにも抽象的で範囲が限定されない恨みはあるが、今のぼくの目論見を言い表すとそうなる。「未来の小説」とは小説の未来のことを言っているのではもちろんない。そんなことは流石に書けるはずがない。主人公が生きる世界が過去や現在ではなく、ありそうで現実にはまだ存在しない未来に生きる小説という意味だ。現実は作者が生きている今現在の世界で、未来は作者の分身が生きるであろう世界を意味している。小説は作者にとって未来であると決めているし、覚悟を持って書くのでもある。

さて、そういう小説は実験的と言いながら実はよくやられている気もする。カフカがどこかで「未来の小説」ということを言っているらしいし、村上春樹は「海辺のカフカ」をカフカのように書いたと述べている。要するにはっきりとした筋書きを作らずに書き進めるということだ。なあんだ、そんなことかとバカにするかもしれないが、筋書きを作らずに書くということの意味は存在論的には大きいと思う。自分を作ることだし当然責任が発生するタフな生き方になるはずだ。小説的には筋書きのことだけれど、小説の中に生きる覚悟を持って書くのだから主人公にとっては生き死にがそれで決まる運命のようなものだ。

昨日自分が生きるとしたら芸術家の卵が寄り合うコミニティがいいのではないかと書いたが、「ユリシーズ」の他に「日はまた昇る」もそうだと気付いた。そして「日はまた昇る」はまだ途中までしか読んでいなかった。だったらまずそれを読み終えることが先なのではあるまいかと考えた。当然読むことと書くことは次元が違うことなのではあるが、追体験が読書方法であるぼくにとっては、読んで体験した方が書くための材料になりうるという期待もある。そんな期待はどんどんこれから湧いてきそうな幸福な気持ちがする。