昨日「日はまた昇る」を歩いて5分で行ける市の図書館から借りて読み始める。2年前は隣の市の図書館で読んでいた。その頃は図書館をあちこちハシゴしていて、図書館の雰囲気の違いを体に染み込ませようとしていた。退職して経験することが限られていたので少しでもバリエーションが必要だったのだ。昨日読み始めると最初読んだ頃の感じが蘇る。図書館で読むのと、図書館から借りてきて自分の家の部屋で読むのとでは感じ方が違うし、もっと多くのことが違っていた。翻訳小説の場合、日本の小説とまず違うのは登場する人物を把握して文中を追いかけるのに苦労する場合があることだ。この読む体感の滑らかさは、小説の中に生きようとする読者にとっては割と本質的なものになる。2回目に読んだ方が断然スムースになる。理解も違っていた。「ユリシーズ」と似たものを漠然と頭の片隅に置いていたが、ダブリンとパリでは違いすぎるし登場人物の芸術家っぽさもヨーロッパ人とアメリカ人では全然異なる。「日はまた昇る」ではブレットという自由奔放な美貌の女性が登場するが、「ユリシーズ」にはヒロインは登場してなかったと思う。していたのかもしれないが記憶にないということは重要な扱いをされてないということで、ヘミングウェイとジョイスの気質の違いなのかもしれない。(調べてみると「ユリシーズ」13章にガーディという美少女が登場するが挿話の形になっていた)そもそも違うのは当たり前なのだが、芸術家の卵たちを取り巻く雰囲気は似たものがある気がしていたのだったが、あては外れうまく「日はまた昇る」の中に入れなかった。というより入ってみて追体験し続けることが躊躇された。何かがぼくの目論見とズレていた。ぼくの書く形式がジョイスの方に幾分か近く、ヘミングウェイの方には隔たりがあったということかもしれない。随分偉そうなことを書いている気がするが、書き続けることを優先するのでよしとしよう。兎にも角にも小説を書いて生きなければならないからだ。
さてこの特殊な生き方は実験的な小説を書くという、ぼくの覚悟と文学に対する愛によってしか支えられないフラジャイルなものだ。3回目で軌道修正しなければならないような、頼りないものでぼくの行き先は本当に未来があるのかも見通せなくなってきた。わかったのは「日はまた昇る」の方ではなさそうということだけだ。そこでもう一つ思い出す小説がある。カフカの「城」である。こちらも最初の5分の1程度で読むのを中断している。でもカフカに返ることでぼくの生き方も足元を固めることができるかもしれないというわずかな期待を抱く。