開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

立ち止まり続けることはできない

昨日この小説の先行きが全く見通せなくなって軌道修正せざるを得なくなったと書いたが、そもそも筋書きはないわけだからそしてあえて筋書きを作らず書き続けるのだから、暗中模索なのは当たり前なのであった。ただゴールだけははっきりしている。自分の分身を主人公にして書くから、自分の死ぬ時がゴールだ。死ぬときの感じは申し訳ないが臆面もなく正直に述べると、人生に納得してこれ以上はどうしても生きられなかったという感慨のままに生き絶えたいというイメージを持っている。満足できる生き方ではなかったが、それでも自分なりに精一杯生きたというまとめのような文章を最後の命を振り絞って書きたいと思っている。ただそこまで行き着くまでが問題であって、例えば宗教的な諦観をもったりすれば「直接的に」まとめを生きて書くことはできるかもしれない。

例えばカフカの小説はユダヤ人の宗教観に囚われていて自由ではない、という見方は研究者のものであって普通の生きる人間の範疇外のものだ。宗教は一つの物語で解釈に基づいた筋書きでできている。ぼくが小説を書いてその中に生きようとするのは、宗教が提供する物語を拒否する生き方でもある。本当はこういう説明じみた文章は小説には不向きであって、書くべきではなかったかもしれない。なんでもありの表現形式ではあるけれど節度は必要だと思う。何が小説形式かは生き方に直結するから、これからもずっと考え続けるだろうが考えるだけで立ち止まり続けることはできない。

立ち止まり続けることはできない、確かにそうだ。小説には立ち止まり続けることになる状況を描かなければならない。ということは、書き続けなければならない。考えることも何かをしていて、心の中では懸命に生きようと立ち止まらず動いているのだ。