開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

未来に何が待っているか

あと2ヶ月余りで66歳の誕生日を迎えることになっている。生物的活動というのは不可逆で使わなければ衰える一方なのだが、使っていれば鍛えられてあまり古くはならないみたいだ。週2回以上はテニスをしているので体力的には維持できていると思う。頭も脳は筋肉でできているので勉強や想像力を使って日々鍛えていれば、あまり衰えないと思っているが記憶力だけは年相応で自信がない。

今日どうして誕生日のことが気になってきたかというと、昨年自分に課したチャレンジが気になってきたからだ。4つの項目があって、英語のスピーキング能力を身につけること、一つのテーマで論文を書いて投稿すること、一冊の本を集中して読了すること、今生きている現在を記述して存在させること、である。今から思うと随分欲張っていると感じるが、期限は設けていないのだから何にチャレンジしたいかを書き出した意味はあったと思う。小説を書くことは入っていない。昨年までは小説を書くことまではチャレンジに入らなかったのだ。一冊の本を集中して読了することと書いているのは、読む力が足りないと認めて小説を書く力など初っ端から無理と決めていたのだ。それがどうして1年して変わり始めたのか、その辺を無意識に自問するようになってきたことが誕生日を意識した原因だろうと気づいた。そう、書いているうちに気づいたのだ。

小説はぼくにとって謎に満ちている。何か方法があるはずだと思っている。描写力が大事だとかのスキル的なことは外面的なことだ。小説を外側から見て言っているに過ぎない。多くの職業作家の言うことはもちろん的を得ているのだろうが、あまり信用していない。夏目漱石辻邦生大江健三郎井上光晴もそれぞれ小説の書き方みたいなことを書いているところを読んだが、自分には合わないと感じられた。自分も書こうと言う気にならなかった。ただ、ヘルマンヘッセとカフカサルトル村上春樹には共感するところがあった。自分を深く掘っていくところに開かれる文学空間というものに自分も入っていけそうに感じるのだ。その微かな胸の中の現象だけが手掛かりというか、方法なのだ。