定年退職のあと居場所がなくて息苦しかったのがここ数ヶ月で和らいできている。やはり妻とできるだけ調子を合わせるようにしてきたことが大きいのだろうが、それは愛ということよりも理解によって深められていく認識とした方が実情に沿っている。調子を合わせるというのは、妻がNOといえばそれに従うというようなことだ。認識というのは彼女の色々な反応を見るようにしているということだ。どんな応え方をするか見守っている感じだ。決して観察しているわけではない。
一番身近にいる人によって共同で作り上げていくセカンド・リブをどう更新し続けていくか、哲学用語で表現するとしたら「共存在」となるだろうか。私やぼくという一人称が主体なのではなく、「共存在」を主体とする複数の持つ存在開示がこれからの基本形になるだろうと、ある日自覚されたのだった。それは今まで自分のことばかりにかまけていた反省もあり、これからはかまけていた分を返さなければという思いもある。
さらに妻と生活することやお互いの死の辛さを感じることで、どういう世界を切り開いていくのかぼく自身に問われてくる。それをしっかり受け止めようと思う。