開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

存在から詩が生まれる

どうしたら気力がみなぎっている状態になれるかを考えて、その状態にいつでもなれるようにしたいと、これまで何度も試みているがうまくいかない。少し前、ああ今は体に気力がしっかりついているな、と感じていた。そして、今その状態を書き留めようとして書き始めてみると、もう幾分かは気力が引いてしまっているのに気づく。

満たされていて、特に何かをするわけではなく、ただいつもの部屋にいるだけなのに「包まれている」感じがする。もう一度その感じをつかもうとすると逃げていってしまう。自分の中に入っているという表現もそれに近い感じだ。しかし自分に閉じこもろうとしてもだめなのだ。

あの体の感じのまま、もしずっと過ごすことができたら、その状態で死ぬことができたらどんなにいいだろうと思うほどなのだ。死ぬことも怖くないと思わせるほど最高の状態で、充実して落ち着いていられる。心身ともに健康な状態なのは確かだろうし、体と心が完全に一致しているとも言えるかもしれない。多分書き留めてもだめなのだろう。言葉に置き換え不能なのだ。しかし、確かに存在していることは否定しようがない。

あの感じと似たような雰囲気を過去のどこかに求めようとしてみると、その一つにぼくの中学生の頃の部屋の中にその雰囲気がある気がする。思い出すのは、サイケデリックなイラストのある雑誌などを見ながらサインペンで描いたものが壁にピン留めされている部屋だ。油性ペンで輪郭を取り、黒い線で囲まれた中を水性マーカーでベタ塗りしていく。宇野亜喜良というイラストレーターがいたが、その人の絵は幾分似た雰囲気を持っているが、流石に洗練されすぎている。

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何かを夢見ている状態かもしれない。意識がはっきりしてくる前の「未然の」少年の夢のような、、、芸術ほどのきびしさには馴染まない、イノセントな世界。宮沢賢治の童話の世界や星の王子さまのような透明感とは違う。人の世界よりは宇宙や鉱物の世界のような感じがする。はっきりしてくるのは、もはや小説の世界ではない、ということだ。むしろ詩の世界だ。

ふとひらめいたのだが、詩は今求めているような感じとか、雰囲気とか、体に感じる気力とかをコントロールできる言語形式なのではないだろうか?

もしそうだとしたら、何かぼくの中にあるものを詩で表現できるかもしれない。ボードレールは自分の中の情動と象徴的なものを「照応させる」と言っていた。ランボーは言葉の錬金術を詩で試みた。ぼくにもできるかもしれない、、、