開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

「荒野の狼」を読んだ

自分の分をわきまえて生きることが真実の生き方だと思う。昨日ヘルマン・ヘッセの「荒野の狼」を読了した。あまりにも自分を偉大なものとしすぎて、狂気の自由に生きようとしたと、今なら落ち着いていうことができる。作家は自分の経験と精神を使って世界を作り上げないといけないから、常識に止どまることができないのだ。壮大な妄想ということもできる。ただ紙の上のことで言葉を尽くして世界を作り、人物を動き回らせる。ただ文学としての技法は芸術的で、ほとんどの読者は魅了される。

トーマス・マンはこの作品を実験的な大胆さにおいて「ユリシーズ」や「贋金づくり」に劣らないと評した。ぼくはといえば、実験的な大胆さは認めるが、あまりにも孤立していて反社会的であり(「車輪の下」しか読んだことのない読者は度肝を抜かれるかもしれない)、ラディカルではあっても虚しさに付きまとわれていて、やはり文学的な影響力は2作に及ばないと感じられた。何しろ「ユリシーズ」は伝統を踏まえているので、影響力も大きい。また同じように娼婦が登場してもドストエフスキーの娼婦のような存在感まではない。(これは時代の差かもしれないが)

デミアン」には多くの自国民が第一次大戦後の自己喪失感からの回復を読み取ることができたが、「荒野のおおかみ」の反逆を受け止めるには、ずっと時代を下ってヒッピーの出現まで待たねばならなかった。ぼくが思うに、文学には民衆の支持が必要なのだ。最後の長編小説の「ガラス玉遊戯」はノーベル文学賞によって支持された。